日本仏教を形づくった僧侶たち

「木食応其」―高野山を滅亡の危機から救った僧―

作家 武田鏡村
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秀吉からの庇護

応其は秀吉の命をうけて高野山に青巌寺と興山寺を建立しています。
青厳寺は秀吉の生母である大政所(おおまんどころ)のために建てられたものです。

また興山寺は、応其のためのもので、のちに応其は「興山上人」という号が与えられています。
ところが秀吉は、生母が亡くなると、関白をゆずった豊臣秀次の罪科を追及し、ついには青巌寺におくって切腹させています。生母の菩提を弔う寺を血に染めたわけです。
このとき応其は、その無謀さを説いたと思われますが、権力者の横暴には盾つけなかったようです。

ちなみに青巌寺と興山寺は、明治になると合併して、金剛峯寺(こんごうぶじ)と改称されています。

金剛峯寺

さらに応其は、奈良の東大寺をはじめ、97カ所の寺塔を復興させています。

そのなかで、もっとも華々しかったのは、京都の方広寺の大仏殿と大仏の造営です。
秀吉は応其を方広寺の住職に任じて、奈良の大仏よりも大きなものを造るように命じたのです。
応其は、それに意気を感じたのでしょう。手紙には、
「大仏木食 応其(花押)」
と書いています。

秀吉は巨大な大仏を鋳造するために、「刀狩り」を命じています。
人を殺める武器が大仏につかわれることは、仏縁をむすぶことになる、というものです。

ところが刀狩りがうまくいかなかったのでしょう。あるいは天下統一のために、多くの軍勢をうごかす費用がかかったのでしょう。大仏は金銅製ではなく、木製のものに代えられたのです。
そのためか、近畿をおそった大地震では、大仏が崩壊してしまったのでした。

あわてた秀吉は応其にたいして、信濃(長野県)の善光寺にある日本最古の仏像といわれる一光三尊の本尊を持って来るように命じたのです。
善光寺の本尊は、わずか一尺五寸(45センチ余)ですが、それが大仏殿のなかに築かれた十丈余(30メートル余)の宝塔に置かれたのです。
これが本尊のあまりの小ささをきわだたせて、京都の僧侶らの不評をかっています。

本尊のその後ですが、秀吉の病が重くなると、それは本尊を移した祟りだ、といわれて急遽、善光寺に戻されています。
しかし秀吉は回復することなく、亡くなっています。朝鮮へ出兵している将兵の動揺をふせぐために、その死は秘匿され、遺骸は応其が采配して、ひそかに京都東山の阿弥陀ヶ峰に埋葬されたのでした。

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