日本仏教を形づくった僧侶たち

「蓮如」―民衆の熱狂的な信仰を集めた本願寺中興の祖―

作家 武田鏡村
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動乱を逃れ越前・吉崎へ

福井・あわら市吉崎

こうした蓮如の布教活動に立ちふさがったのが、比叡山の延暦寺と、蓮如が組織した一向衆(門徒集団)でした。
蓮如はまず、琵琶湖一帯に勢力をもつ堅田衆(かたたしゅう)を門徒化することに成功していました。堅田は琵琶湖の運行権をにぎって繁栄していた所です。堅田衆は蓮如を支え、本願寺に多大な貢献をして教線を拡大することに大きな力を発揮しました。

しかし、比叡山の延暦寺衆徒は、足もとにある堅田衆が本願寺に帰服したことで、大いに怒りました。延暦寺の衆徒は、親鸞の法脈を継ぐ伊勢(三重県)に進出していた専修寺と結んで、本願寺の躍進を阻止しようとしたのです。

「本願寺は一向専修(いっこうせんじゅ)を説き、三宝(さんぼう)をそしり、無知な男女をたぶらかして群をなし、神仏を軽んじる悪行の輩が多い」
この延暦寺の批判は、かつて浄土宗を開いた法然の専修念仏に寄せられたものと同じです。

寛正(かんしょう)6年(1465)正月、延暦寺の衆徒は突然、京都大谷の本願寺を襲いました。蓮如は門徒が防戦する間、からくも難を逃れましたが、本願寺の堂舎は破壊されたのです。激怒した堅田衆は徹底抗戦を主張しますが、延暦寺衆徒の狙いはお金であると見た蓮如は、戦うことを制して比叡山に大金を送って和解したのです。

しかし堅田衆は、比叡山の山麓にあることから利害が対立していました。湖西の金森で延暦寺衆徒を戦って打ち破ったのです。これが一向一揆の始まりです。しかし、蓮如は、
「本願寺に帰依するなら、ただちに戦いをやめよ」
と命じましたが、堅田衆は再び延暦寺衆徒と戦い、大攻撃を受けて敗退します。ついに蓮如は堅田を去ったのでした。

蓮如の目は北陸に向けられます。北陸は本願寺以外の真宗教団が定着していた土地です。親鸞の教えが流布しているので、そこにある異端を排除すれば、教線を広げる ことができると考えたのです。蓮如は、越前(福井県)と加賀(石川県)の境で、北国路の要地にあたる吉崎に拠点をかまえました。これが吉崎御坊(よしざきごぼう)です。

蓮如は御文と名号を下して、異端の坊主や村長などを帰服させ、ついには北陸一帯に本願寺王国をつくりあげたのです。吉崎御坊には北陸はもとより信濃(長野県)や東北地方からも門徒が参拝し、宿坊が二百軒も立ち並んだのでした。
しかし、布教だけを貫くといった信仰の純粋性を保つことは不可能でした。蓮如は、政治や時代の波に翻弄されたのです。

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