日本仏教を形づくった僧侶たち

「伝教大師最澄」―日本仏教の原点を切り拓いた求道者―

作家 武田鏡村
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天台宗を開く一方で

伝教大師最澄

大講堂 (写真提供・比叡山延暦寺)

 中国から帰国した最澄には、輝かしい栄光の座が待っていました。延暦25年(806)正月、ついに朝廷から比叡山に天台宗を開くことを許す勅許がおりたのです。

ところが、最澄の喜びは長く続きませんでした。最大の理解者であった桓武天皇が、わずかその3カ月後に亡くなったからです。拠り所を失った最澄に対して、朝廷も仏教界も冷たく接しました。しかし、失意に落ち込んでいる最澄ではありません。天台宗の教学体系の確立に力をそそぎ、修行の充実を図ったのです。

空海と親しい交わりが結ばれたのは、そんな時期でした。空海は唐に2年3カ月間も留学して、正式な密教を修得して、真言宗第八祖になっていました。空海は帰国すると真言密教をもって、たちまち仏教界の寵児になったのです。桓武天皇が最澄に目をかけたのと同じように、嵯峨天皇が空海を重用したからです。そこには最澄の天台宗の独立を苦々しく思っていた南都仏教側の意向もありました。

しかも、空海には加持祈祷の修法によって、即身成仏ができるという朝廷や民衆が望むような教義がそなわっていたのです。

今や空海は飛ぶ鳥を落す勢いですが、一方の最澄の存在は、すっかり影をひそめてしまったのでした。密教の奥義を会得していない最澄は、7歳年下の空海に対して辞を低くして、真言密教の教えを謙虚に求めました。弟子にも機会があるたびに、密教を学ばせました。平安時代の仏教のパイオニアとして、はじめ二人は理解しあい、友好的な交流を重ねていったのです。

ところが、二人の間に永久に埋めることのできない大きな亀裂が生じたのです。最澄の愛弟子の泰範(たいはん)が最澄の天台宗を離れて、空海の真言宗に走ったのです。泰範は、天台宗より真言宗こそが正法であると考えたからでした。自分の亡き後、比叡山を継ぐものと考えていた泰範の転宗は、最澄にとって大きな痛手でした。

最澄は、泰範に戻ってくるよう、手紙を書き続けますが、泰範の心は揺るぎませんでした。そんな泰範を空海は、優しく受け入れていたのです。そして、ついに最澄と空海が絶交する日がやってきました。真言の奥義となる『理趣経(りしゅきょう)』の借用を申し入れた最澄に対して、空海は、

「密教の奥義は文章を読んだだけでは、分かるものではない。それは心で心に伝えるものである。文章は糠味噌や瓦礫のようなもので、そこには心は存在しない」

と、厳しく拒絶したのです。最澄の教学を重視する考えと、空海の神秘的な行法を重んじる考え方が火花を散らしたのです。その背景には、二人の強烈な個性と仏教観の違いがありました。最澄は、ひたすら教学と修行によって道心を得るという厳しい内向の性格であったのに対して、空海は仏法を体感するという行動的な性格の持ち主であったからです。

この考え方の相違に加えて、泰範の処置でも対立していたのです。最澄は、もはやこれまでと、空海との決別を決心しました。

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