日本仏教を形づくった僧侶たち

「伝教大師最澄」―日本仏教の原点を切り拓いた求道者―

作家 武田鏡村
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今に受け継がれる宿願

伝教大師最澄

根本中堂 (写真提供・比叡山延暦寺)

 最澄は、弘仁7年(816)の50歳のときに、天台宗を布教するために関東から東北地方に旅立ちます。行く先々で天台宗門を説き続け、多くの帰依者を得たのです。同時に民衆の息吹きに直接ふれたことで、新たな活力を得ました。

この間で最澄は、徳一(とくいつ)との論争を真正面から受けて立っています。徳一は、奈良の興福寺や東大寺で修行した法相宗(ほっそうしゅう)の人で、筑波山の中禅寺や、会津の恵日寺(えにちじ)を創建した高僧でした。徳一は最澄の天台法門を徹底的に批判しますが、最澄もまた天台宗門の正しさを説いて論破しています。

旅から比叡山に戻った最澄は、さらなる大きな自信をもって、念願の大乗戒壇(だいじょうかいだん)の独立に、あらん限りの心血をそそぎました。

僧侶になるためには、東大寺などにある朝廷が定めた戒壇院にのぼらなければなりませんでした。それを比叡山にも設置して、道心のある僧侶を育成して、世に送り出そうとしたのです。

当然ながら、南都仏教側からは、非難と強い圧力がかけられましたが、最澄は命がけでそれに対抗して論陣を張りました。「入山願文」をかかげて修行した若き日の情熱が蘇ったかのように、その舌鋒は熱かったのです。

しかし、3回にわたって朝廷に申請書を提出したにもかかわらず、その目的は生存中には果たすことができませんでした。

「心形(しんぎょう)久しく労して、一生ここに窮まる」

臨終を前にした最澄の感慨です。弘仁13年(822)6月、57歳で最澄は亡くなりました。

ところが、最澄の宿願は、死後の7日目に朝廷から大乗戒壇の設置が許可されて果たされたのです。これが今に伝わる戒壇院です。これによって、僧侶が国家から総括されるのではなく、仏教教団によって統治されるという日本史上、実に画期的なことが認められたのでした。翌年には延暦寺の勅額を賜っています。

比叡山に籠った若き最澄は、その庵室に薬師如来を安置して、霊前に不滅の法灯をかかげて、

「あきらけく、のちの仏の、みよまでも、光つたえよ、法のともしび」

と詠じています。根本中堂(こんぽんちゅうどう)にある法灯がそれです。

最澄のあとも比叡山は一大教団として発展し続け、根本中堂のある東塔、釈迦堂を中心とする西塔、そして横川(よかわ)の三塔を誇る一大伽藍を形成するまでになっています。

最澄が開いた天台宗と比叡山は、よく「総合大学」であると形容されています。それは、密教・禅・念仏・法華の各教学が修されていたからです。そこにある禅門からは栄西や道元が、念仏門からは法然や親鸞、法華門からは日蓮が、それぞれ輩出していたからです。

最澄の名前は、天台宗の開祖として、また伝教(でんぎょう)大師の名前で、人々の心の中に生き続けているのです。

作家
武田 鏡村(たけだ きょうそん)
1947年、新潟県生まれ。作家、日本歴史宗教研究所所長。主な著書に『良寛 悟りの道』(国書刊行会)『一休』(新人物往来社)『「禅」の問答集』(河出書房新社)『名禅百話』(以上、PHP文庫)『親鸞 100話』(立風書房)『親鸞』(三一書房)『般若心経』(日本文芸社)『清々しい日本人』『図解 五輪書』『決定版 親鸞』(以上、東洋経済新報社)ほか多数。
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