“幸せ力”をつける

「お帰り」と手放しで迎えられる幸せ ―釈 徹宗―

相愛大学教授 浄土真宗本願寺派如来寺住職 釈 徹宗
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神仏や先祖を思う大切さ

しかし、現代人は、肌感覚の時間が、どんどん短くなっているようです。
たとえば、最近の傾向では、親の法要も一周忌とか三回忌で終わるところが多くなりました。昔ならば、顔を見たことのない先達の五十回忌法要をも、親戚を集めて行いました。

宗教学的に言えば、日本には古来から、亡くなった先祖の霊を祀っていくと、やがて、歳神様になり、子孫を見守ってくれるという祖霊信仰がありました。
家は祖先を祀るために存続させなくてはならない、という一面があったわけです(私は浄土真宗の教えに育てられていますので、信心や宗教儀礼をまた別の体系でとらえているのですが)。

家は生きている人間のためのものだけではなく、半分は死んだ人のためのものだったのですね。法要のときなどは、子どもたちも遊びたいのを我慢して、酔っ払った親戚のおじちゃんの相手をしたり、よくわからないお経や説法を、辛抱して聞いたりしていました。
それは人との肌感覚の時間を延ばす大切な機会の一つだったなあと、今になって思います。親戚や近所付き合いなど、長い時間、人との肌感覚に置かれれば、煩わしさや面倒くささもたくさんあり、我慢も必要になります。しかし、その反面、目に見えない関係性を知見する能力を育ててくれる文化装置でもあったのでしょう。

今は、そうした、日本人の価値観や死生観も、曲がり角にきています。
それにともない、社会構造もどこか汲々として、何かしんどくなっている。しかし、大きな生命の流れを大切に祀ってきた日本人の心のありようを振り返ると、何か現代人の閉塞感に、風穴を開けるヒントがあるようです。

そういう意味でも、今、日本の仏教は、面白い時期を迎えています。
お寺や教会は、本来、社会の価値観など、身にまとったものをいったん、おろせる場なのですね。神仏が無条件で抱きしめてくれ、「お帰り」と、自分を迎え入れてくれる場所です。

「仏」は、「ほどける」というのが語源だという説もあります。人生は、結び目みたいなもので、死ぬとそれがほどけて、やがて大きないのちの流れのなかに帰っていく、というイメージでしょうか。
そんな実感をもてる場(たとえば、お寺や教会など)があれば、苦難の人生を、なんとか生き抜いていけるのでは——。
宗教の場に限らず、家族にでも恋人にでも、手放しで「お帰り」と言ってもらえることが、もしかしたら究極の幸せといえるのではないでしょうか。

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