日本仏教を形づくった僧侶たち

「一遍智真」 ─絶対他力の本願に身をゆだねた念仏聖─

作家 武田鏡村
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類を見ない絶対他力

時宗の二世・真教が建立した神奈川県相模原市にある無量光寺

一遍には、同行を拒まれたものの、超一超二という尼僧、それに念仏房聖戒[せいかい]が強引に従っています。超一が一遍と何らかの関係があった女性で、超二はその子供でしょうか。聖戒は一遍の甥で、のちに有名な『一遍聖絵[ひじりえ](『一遍上人絵伝』)』を残した人です。『一遍聖絵』は、一遍の布教や足跡を知ることができるばかりではなく、鎌倉時代の民衆の生活や風俗を知る貴重な史料になっています。

一遍は大阪の四天王寺を経て、高野山から熊野本宮の証誠殿に参籠して、衆生を救済するために、念仏札を配ることを考えました。「南無阿弥陀仏」と紙に刷られた念仏札は、古くから高野聖[こうやひじり]が持ち歩いて、配っていたものですが、一遍は往生を確約するものとして着目したのです。

それには一遍の確固とした確信がありました。浄土宗を開いた法然については、「念仏さえ唱えれば往生できるとされたが、日々の生活に追われ、さまざまな煩悩に苛まれている人々にとって、弥陀如来の本願を信じて念仏せよといっても、容易にできるものではない」

また浄土真宗を開いた親鸞[しんらん]については、「弥陀如来を信じさえすれば往生できると、信心を重視されたが、いつ信心が生じ、その信心が本当か嘘かは分からない」

法然や親鸞の浄土念仏のあり方を考えた一遍は、ついに類を見ない絶対他力の境地を開きます。

「念仏の行者は、智恵も無知も捨て、善悪も捨て、地獄を恐れる心も捨て、極楽を願う心も捨て、一切のことを捨てて唱える念仏こそが弥陀如来の本願にもっともかなうことである」

今までの極楽往生を求める先師や教団の信仰を踏まえて、

「救われんとする心さえ捨てよ」

という独特の信仰を築いたのです。そのため一遍は捨聖[すてひじり]と呼ばれました。

遊行の旅は、熊野から伊予を経て九州へと続きます。九州は二度目の蒙古来襲に備えて、諸国から軍兵が集められて騒然としていました。別府に鉄輪[かんなわ]温泉を開いて元寇[げんこう]で負傷した兵士の治療にあたったといわれています。ちなみに一遍の遊行は、全国を恐怖に陥れた蒙古来襲という民衆の不安に支えられ、多くの信徒を生み出したという一面があるようです。

一遍の旅は、さらに続きます。九州から山陽道を上りながら、備前[びぜん](岡山)の藤井の宿にかかったとき、吉備津[きびつ]宮の神主の息子の家で、一切を捨てて念仏に帰依[きえ]することを勧めました。その家の若い妻は、一遍の説法に感動して出家することを願いました。すると一遍は、ためらうことなく髪をおろしてやったのです。

のちに、それを知った「備前の勇士」といわれた夫が烈火のごとくに怒って、一遍の後を追いました。恐らく一刀のもとに斬り捨てるつもりであったのでしょう。しかし武士の血を引く一遍が、「神主の息子か!」と一喝すると、このひと言で夫は敵愾心[てきがいしん]を失い、教えを受けて、たちまち頭を丸めたというのです。『一遍聖絵』では、この地で出家するものが二百八十余人いたと誇らしげに書いています。

無量光寺にある一遍像

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