日本仏教を形づくった僧侶たち

「鈴木正三」―武士から出家して人生に警鐘を鳴らした禅僧―

作家 武田鏡村
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旗本の身分を捨て出家

正三坐像(心月院蔵)

正三坐像(心月院蔵)

41歳のとき、大坂城を警護する大番[おおばん]役に列して、旗本としてエリート街道を歩むかに思われました。勤務の暇には盲安杖[もうあんじょう]を書いています。

その動機は、儒学を学ぶ同輩から、「仏道は世法にそむく」、つまり仏道は世の中の道理に反し、武士の道からもそれているといわれたことでした。

これに対して正三は、

「武士の道も人の道も、いずれも『死』を見つめて、それぞれ職務にはげむことである」

として、

「生死を知って、楽しむ。[おのれ][かえり]みて、己を知る。己を忘れて、己を忘れるな。物事には、すべて心があることを思え。小利を捨てて、大利にいたれ」

などの十項目を表わして、仏道が決して世法と矛盾していないばかりか、心を修する仏道こそが人生の[かて]になると説いています。この『盲安杖』は、徳川時代をつうじて庶民の修養の書として普及することになります。

正三は、「武士だ、大名だ、旗本だ」といって威張る環境がいやになったのでしょう。42歳のとき、覚悟のうえで髪を切って出家します。もちろん周囲は大反対で、勝手な出家は幕府から[とが]められると心配したのです。

事実、正三を「切腹させろ」「家禄を没収せよ」という声さえあがったのでした。幕府内でも問題になり、将軍秀忠の意向をうかがうまでになったのです。秀忠は正三の心を知っていたのか、

「それは仏道を求める道心[どうしん]というもので、正三は隠居[いんきょ]したまでだ」

と理解を示したので、なんのお咎めもなく無事に出家することができたといいます。

出家の立会人は、庶民禅を説いていた南泉寺の大愚宗築[そうちく]で、「正三[しょうぞう]」という俗名の呼び方を正三[しょうさん]として、出家名としたのです。

正三が修行したのは主に曹洞宗[そうとうしゅう]でしたが、だからといって禅宗の教団に属することはなく、むしろ形式に[]する禅寺と禅僧を軟弱な禅法として歯に[きぬ]着せぬ批判をしています。

また大坂の夏の陣以降、戦国の乱世が終わって元和偃武[げんなえんぶ]といわれる太平な時代を謳歌[おうか]する弛緩[しかん]した社会の風潮を嘆いて、それを厳しく指弾[しだん]しています。

正三は、士農工商という身分を認めたうえで、それぞれが「生死」を見すえて勇猛な心、山門に立つ仁王[におう]像のような猛々[たけだけ]しい心をもって職務にはげむことを説いています。これを「仁王禅」といいます。

たとえば武士は、戦場におけるように「死を見すえる」ことで、職務に邁進[まいしん]する。私利や依怙贔屓[えこひいき]はせず、問題を真正面から受けとめて対処する。それには腹を切ることを覚悟して事にあたれば、必ず正しい道、仏道を歩むことになる。

ある大名に対して正三は、

「上には直言をもって提言し、下には慈愛をもって接することが、治世[ちせい][かなめ]である」

[おく]することなく説いています。自分というものを滅却[めっきゃく]して、捨て身で生きればよい。そのためにも「生死」をつねに心において、仁王のような勇猛で慈愛に満ちた心を持ちながら生きることである。

正三は商人に対しては、もうけることは当然であるが、決して私利私欲に走ってはならない。社会や人のためになることを心がけて商売をすることである。これは「小利よりも大利を求めよ」ということで、それが仏道を修することである、と説いています。

「何ごとも皆、仏道の修行である」

万民徳用[ばんみんとくよう]に記します。いわば勇猛で勤勉に、それぞれの職務を果たすことは、人間と仏道を同時に完成させることになるのです。やがて正三は、

南無大強精進勇猛仏[なむだいきょうしょうじんゆうもうぶつ]

を掲げるようになります。

正三墓石(恩真寺)

正三墓石(恩真寺)

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