日本仏教を形づくった僧侶たち

「隠元隆琦」―宇治に萬福寺を建てて黄檗宗を伝えた中国人僧―

作家 武田鏡村
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日本仏教界に新風

すでに日本では、法然[ほうねん]親鸞[しんらん]などが説く念仏信仰が定着していました。「南無阿弥陀仏」と唱えることで救われるというものです。

禅者として浄土念仏の信者をも受け入れる姿勢は、それまでの日本にはなかったもので、沈滞していた仏教界に新風を吹き込みました。それは臨済宗や曹洞宗といった禅界にも刺激を与え、活性化させたのです。

曹洞宗では、黄檗風の禅堂が造られたばかりか、読経[どきょう]のさいには黄檗宗の読経となる古い中国の発音「黄檗唐音[とういん]」で読んだり、黄檗清規[しんぎ]といわれる禅堂の規則を取り入れたりしています。

ところが、のちになると、それへの反動から本来の曹洞禅に立ち返れ、という宗統復興運動が起こっています。

萬福寺は、明風の伽藍と法式をもって、独特の宗教的な雰囲気をかもし出しています。とくに梵唄[ぼんばい]といわれる仏教音楽には、独特なものがあります。

さらに隠元や弟子たちが書く扁額[へんがく]揮毫[きごう]も独特で、「黄檗[もの]」と呼ばれて珍重され、茶室の掛け軸に用いられるようになります。

隠元がもたらした中国の仏教文化は、しだいに日本に浸透していきます。その代表例が黄檗版の「一切経[いっさいきょう]」です。隠元が伝えた「一切経(大蔵経[だいぞうきょう])」を刊行したのが、鉄眼[てつげん]です。鉄眼は開版のために寄付金を集めますが、それを飢饉にあった人びとに与えて救いました。

鉄眼が開版した「一切経」は、「黄檗版」とも「鉄眼版」ともいわれて、日本の経典研究は飛躍的に進んだのです。鉄眼の「一切経」は、現在でも塔頭[たっちゅう]宝蔵院[ほうぞういん]で印刷されています。

また隠元が伝えたものに、「普茶[ふちゃ]」といわれる精進料理があります。植物油と[くず]を多用した濃厚な味わいで、一品一品が技巧的に作られた素晴らしい料理です。

このほかには、隠元豆、隠元豆腐[どうふ]、隠元頭巾[ずきん]、隠元[がさ]、隠元行灯[あんどん]など、隠元の名前を冠したものが知られています。

隠元豆

隠元豆(画像・AdobeStock)

これらは隠元がはじめてもたらしたというよりは、中国風のものを一括して隠元の名がつけられたのでしょう。

実際、隠元が来日したとき、僧侶だけではなく、文人や職人なども伴っていたといわれますので、建築や絵画、詩にいたるまで明文化が入ってきて、日本文化に影響を与えたのです。

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