日本仏教を形づくった僧侶たち

「円爾弁円」―京都・東福寺を開いて鎌倉仏教を定着させた僧侶―

作家 武田鏡村
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • LINEで送る

留学後の名声

こうしたことから円爾の名は高まったのですが、円爾はさらに長楽寺の栄朝のもとで修行しながら、中国そうへの留学、いわゆる「入宋求法にっそうぐほう」の志を立てたのです。

やがて九州博多にいる中国商人のツテで、宋に渡ることができました。同行したのは、栄朝の弟子となる栄尊えいそん湛慧たんえいです。

中国での円爾は、天童山景徳寺てんどうざんけいとくじ浄慈寺じんずじ霊隠寺りんにんじなどの寺々で精力的に修行し、のちに径山きんざん万寿寺まんじゅじにいる無準ぶじゅんに参じます。無準のもとには、やがて日本にやってくる兀庵ごったんがいました。

円爾は7年の求法を終えると、博多に帰ります。帰国のさいに携えた典籍は千巻余といわれ、これによって仏書や儒書の研究が飛躍したといいます。

また製粉機を伝えたことから、博多素麺そうめん伊予いよ素麺が興ったといわれ、さらに博多焼をはじめ、博多祇園祭りの山車だしも円爾の創案ともいわれています。

博多祇園の山笠

博多祇園の山笠(画像・AdobeStock)

中国から持ち帰った茶種を駿河にもたらし、これが静岡茶の元となったともいわれています。

円爾の名望は高く、崇福寺そうふくじ承天寺じょうてんじ万寿寺まんじゅじが創建されるや開山に迎えられています。

こうして博多を中心にして、禅風が大いに高まると、その声望をねたむ大宰府だざいふにいる僧徒は、朝廷に承天寺の破却を奏請そうせいしました。

しかし、朝廷は逆に崇福寺と承天寺を官寺とし、それのみならず崇福寺に「西都法窟さいとほうくつ」(九州仏法の拠点)という後嵯峨ごさが天皇の勅額をくだしたのです。

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • LINEで送る