インタビュー

「十二因縁」苦しみの連鎖を抜ける スカトー寺副住職 プラユキ・ナラテボー③

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • LINEで送る

 

〝反応〟から〝対応〟へ

このように触から受、さらに渇愛、取へというプロセスが順繰りに展開していきますが、ブッタによればそこから解放される道がある。それには無自覚に反応しないことがまず肝要。快・不快・中性に〝反応〟してしまうのではなく、しっかりと〝対応〟できるかどうかが分かれ目です。反応してしまえば、感覚や感情に飲み込まれ、流されていってしまいます。

私たち人間は心が鍛えられていないと自然にそっちにいってしまうのです。しかしながらブッダは、〝反応〟してしまうのではなく〝対応〟していける力を鍛えることができるよ、と確言されました。そうした対応の道の中心になるのがねんじょうです。これが、瞑想修行の核になっていきます。私たちが苦しみの輪廻から解放されていくために全力を尽くして培ってゆくべき力です。

それは、どういう力かと言えば、「念」は覚醒する力。覚醒力。それから「定」は受容していく力、受容力。「慧」というのは智慧の意味で、洞察する力。洞察力です。すなわち、瞑想修行を通して、あらゆる出来事、あらゆる現象に対して「貪・瞋・痴」反応ではなく、「念・定・慧」対応していきましょう、ということです。この「念・定・慧」対応、わかりやすく表現すれば、気づき(覚醒力)、受け止め(受容力)、理解(洞察力)するということになります。

なお、対応ポイントとしては、「受」の段階で対応していければよいのですが、そこで間に合わなければ、「渇愛」や「取」の段階でもOKです。いったんハマり込んでしまっても、その時点で気づいて、ちゃんと対応できれば、滅苦へと歩みを進めることができます。

ただ、対応が後手に回るほど、そこから抜け出すのに余計な労力が必要となります。したがって対応は早ければ早いほど良いのです。気づき、受け止め、理解するという対応を間に合うように努めていくことが、瞑想修行において非常に大事になってくるのです。

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • LINEで送る