インタビュー

科学者が語る、仏教の魅力――『ロボット工学と仏教』 著者インタビュー(2)

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「当たり前にあると思われている心を定義することは実は難しいんです」

と語る上出寛子氏

――上出先生は心理学の立場から、心というのはどういうものだと思いますか。

上出 心理学では、心というものを、実は積極的には定義していません。むしろ面白いことに、ロボット工学の先生方とか、モノを作る立場の先生方の方がそういうことよく考えていらっしゃいます。

「ロボットに心はあるんですか」という質問をたまに受けますが、そういう質問をされるということは、あらかじめ心を定義されているはずなので、逆に、その心ってどう定義してるんですかって尋ね返すと、やはりなかなか答えられません。それくらい、心は、当たり前に私たちにはあると思っているけれど、つきつきめて考えると、心を定義することは難しいんです。

だからもしかしたら、私たち人間はみな心を持っていて、ロボットは持ってないと思っているけれども、もしかしたらそれは先入観なのかもしれません。ロボットにもシンプルだが心があるかもしれない、そうだったらどうします?

 あるかもしれない。ロボットに限らず、このペンの中にもあるかもしれない。

たとえば天文学。宇宙の果ては270億光年にあることがわかっています。そして銀河団がいっぱいあるような写真が撮れる時代に入りました――そこまではいいんです。

ところがそれを認識しているのは自分だ。自分はどっから来たんだ、と。そんな大きなものを認める自分は何者だろう、と。すると天文学は、いっぺんに心の問題に入ってしまう。

ビッグバンが宇宙の始まりです。ところが、みんなビッグバンは空間の中の一点から爆発したと思っている。じつは空間と時間はビッグバンが起きた後にできたのです。無の状態からできたのです。空間も時間もない。だからぼくはそれを第三の間と呼んでいるのです。時間、空間、第三の間。だからロボットに空間概念はないのです、まだ。広がりという観念がとっても難しい。

ひと言でいえば、空間は移動で、時間は変化なんです。

今のロボットに、ここのあるものを掴めといったら、行って掴めます。しかしロボットは空間が分かっているんではなくてXYZ 軸で動いている。Xはいくつ、Yはいくつ、Zはいくつと、コンピュータで割り出してそれで動いているだけです。

ここから向こうに広がっているという観念がない。

向こうとか此処とかということは、とっても難しいことなのです。

僕らはここにしか居れないんです。あそこに居ることはできない。あそこへ行けば、あそこがここになってしまうから。今とここにしかいられないんだ。自分がいるときは「今」で、場所は「ここ」なんです。だから仏教はそれを大事にしろと教えている。

過去は過ぎ去ったこと、妄想。ただ、いくらか経験してあるから、やや現実的ではある。未来なんていうのは完全に妄想です。

未来のことなんかで取り越し苦労するな、と。

今この瞬間を生かしていって、この瞬間、この場所を活かしていきなさい、と仏教は教えているのです。

そういう意味で、「ロボットは仏性ぶっしょう丸出し」です。というのも、ロボットははっきり言えば、物なのです。物には仏性がある、それだけのことなんです。一切衆生悉有仏性、ものもすべて仏性をもっているのです。せっかくある仏性を表に出さずにいるのが人間なんです。あとのは仏性が出てしまっている。ロボットは修行する必要がないんです。修行が必要な生き物は人間だけなんです。ここで言う仏性とは、法身の仏です。天地の道理のことです。

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