インタビュー

ブッダの瞑想法――その実践と「気づき(sati)」の意味(1)

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ゴータミー精舎のアイドル、今年9月22日に天に昇ったナミちゃん

Q2   マインドフルネスは、日本語に訳すと何と言いますか。

「気づき」という訳になりますね。さっきもちょっと触れましたけど、マインドフルネス(mindfulness)は、仏教経典に出てくるサティ(sati, サンスクリット:smṛti)の英訳なんです。他によく使われている英訳にアウェアネス(awareness)があって、スマナサーラ長老はこっちのほうが正確な訳だと仰っています。

経典をひも解いてみるとサティという単語は、①瞬間瞬間の気づき・注意・不放逸、②特定の(瞑想)対象・法に心をかける、③単なる記憶作用、といった意味で用いられてきました。

中国に仏教が伝来した時、サティ(sati, smṛti)には「念」という訳語が当てられました。歴史的経緯を見ていくとややこしいところがあるんですけれど、シルクロードを経由して中国にわたった北伝仏教の教学では、念というキーワードが、記憶するとか、思念するとか、一つの対象を考え続ける、というふうに――いわゆる念仏の念ですよね、阿弥陀仏だったら阿弥陀仏を念じ続ける――対象を想起し続ける、というかたちで解釈されてきました。

要するに、日本も含めて北伝の仏教では、サティを解釈する時に②と③の意味が強まって、①「瞬間瞬間の気づき(つまり不放逸)」という実践的意味が抜け落ちてしまったんですね。とはいっても、日本語で「正念場」とか「念には念を入れよ」という時の「念」には、①の意味も残っていますよね。面白いなと思います。

現代のテーラワーダ仏教に至る南伝仏教の文脈では、「瞬間瞬間の気づき(つまり不放逸)」という実践的な意味が保存されてきたんですね。サティはアウェアネス、マインドフルネスなどと英訳され、そこからさらに日本語に重訳して「気づき」とされたのです。

「気づき」というキーワードは仏教的な文脈だけではなく、スピリチュアル系の本なんかによく出てくるため、敬遠する人もいます。でも従来の仏教文献では、八正道の正念は「正しい記憶」「正しい思念」など、具体的な実践と結びつかない単語に訳されていたんですね。訳した人も、意味が分かってなかったかもしれません。そこにテーラワーダ仏教で保存されてきたサティの概念が「マインドフルネス」あるいは「アウェアネス」という英語経由で移入されたことで、仏教の基本中の基本である「正念」が日本人にもストンと理解できたんですね。瞬間瞬間、変化生滅し続ける現象のあり方(無常)に「気づく」ということが、ブッダの説かれた「正念」の実践方法でした。しかしそれが、これまでの日本語の仏教の文脈の中では見失われがちだった、ということなのです。

20世紀末から今世紀にかけて、テーラワーダ仏教という新しい流れが日本にどっと入ってきたことによって、これまでの日本の仏教の中で空白になっていたミッシングピースが、「正念とは、正しい気づきなのだ」という具合にバチっと嵌ったんでしょうね。

 

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