インタビュー

ブッダの瞑想法――その実践と「気づき(sati)」の意味(1)

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編集局長として日本テーラワーダ協会を支える佐藤氏

Q4   気づきの状態を得る方法として、坐ってする瞑想と歩行瞑想があります。その違いと、観察の対象を教えてください。

立つ瞑想、歩く瞑想という場合、観察の対象は、四念処の“身(身体)”と“受(感覚)”の二つです。この身体と感覚の2つの観察という要素が大きいんですけれど、あと、やっていくうちに心の観察にも入っていきますね。すべてサティの実践は、瞬間瞬間に何が起こっているか、その時々の瞬間瞬間を観察してゆくということなので、四つのチャンネルと言っても、実践する場合は一本道なんです。その瞬間にサティを入れているチャンネルがどこか、その瞬間、何に気づいているのか、という差でしかないのです。瞬間瞬間起きている現象に傾注して、気づいていること、気づきを絶やさないこと。立っていようが、歩いていようが、坐っていようが、それだけのことです。

――それを日常生活の中に取り入れることはできますか。マインドフルな毎日を送るにはどんな工夫が必要ですか。

「瞑想とは実況中継である」とスマナサーラ長老も仰っていますが、日常生活の中でも、実況中継しながら気づきを絶やさないことは、各人の工夫によって可能です。一人でいる時は文字通りの実況中継もできますが、自動車の運転など、複雑なことをしている時には難しいでしょうね。そういう時でも、自分がいま何をしているのか、ということを承知(正知)していることはできるでしょう。

あるいは、日常生活の中で心の変化が起きた時に、なんか引っかかっているなということで、自分は執着しているんだな、と気づく。「あ、執着」とラベリングする。そうやって、真理の角度でものごとを見て「あ、自分はいまこうなんだ」と気づくことはできるでしょうね。その角度に感情を入れて、「執着してる自分はダメだ」とか評価を始めたら、瞑想どころかただの妄想ですが。要するに、いつも「観察モード」でいるということです。生活の中で、ひたすら観察してデータを集め続けるんです。でも、余計な評価は一切しない。それができれば、マインドフルな毎日を送れるということになるのではないかと思います。

掃除をしている時には、掃除機「押します、引きます」とか、皿洗いする時には、「回します、回します」とか、手を「伸ばします、戻します」など、そういう単純な動詞で実況するんです。なるべく単純な動詞を使うことで、現象世界の見せかけの複雑さに捉われることなく、いま・ここの自分の行為を実況中継することはできます。一人の時だったらね。やれる時にはやればいいし、やれない時にも観察モードを忘れないで、自己観察してゆくことはできるはずです。

たとえばかっと怒りそうになった時には、「怒りが出てきたな」と気づければ、それ以上、炎は燃え広がらないでしょう。マインドフルじゃない場合は、怒りが炎上して延焼まで起こして、たいへんなことになってしまったりします。欲にしても怒りにしても、気づきがあるのと無いのとでは、結果が大きく違います。

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