日本仏教を形づくった僧侶たち

「親鸞」―仏教の根幹に立った「悪人正因」の信仰―

作家 武田鏡村
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念仏禁止で越後流罪に

御田植御旧跡

親鸞は、熱心に法然の専修念仏の教えを聞法して、完全に法然を私淑するまでになりました。ところが、専修念仏が燎原の火のように民衆に受け入れられて、しかも阿弥陀如来の本願以外は信じることができないとする門弟たちが出てくるようになると、既存の信仰的権利を奪われることを恐れた比叡山や南都(奈良)教団から批判の声が上がったのです。

まず比叡山延暦寺の衆徒が、天台座主に専修念仏の停止を訴えました。このとき法然は過激な門弟の言動をたしなめる「七カ条起請文」をつくって、門弟たちに署名させ、それを天台座主に送ることで批判をかわしたのです。また南都の興福寺の貞慶という僧が、念仏を禁止し、過激な門弟を処罰するように朝廷に訴える事態が起こっています。

こうした騒動にもかかわらず親鸞は、ひたすら法然の教えを真剣に学びました。その結果、法然はよほどの念仏信仰者でない限り見せることがなかった『選択本願念仏集』の書写を親鸞に許したのです。しかも親鸞は、法然の真影に真筆の銘を受けて、それまで名のっていた綽空を改名したのです。どんな名前になったかは分かりませんが、おそらく親鸞と名のったのでしょう。
こうした法然の一連の好意に対して親鸞は、心から喜び、やがて「法然上人に騙されて、地獄に堕ちたとしてもよい」と思うまでになっていったのです。

しかし興福寺の追及は厳しく、ついに専修念仏が禁止され、法然や親鸞を含めた多数の門弟が流罪や斬首となったのです。このとき法然は土佐(高知県)に流罪とされましたが、半年後には摂津(大阪府)箕面の勝尾寺に蟄居しています。

一方、35歳の親鸞は越後(新潟県)に流されて、赦免されるまでの5年間を過ごしています。この法難に対して親鸞は、

「主上臣下、法に背き、義に違し、忿りを成し怨を結ぶ」

と、朝廷の処置を厳しく批判しています。そして、

「しかればすでに僧にあらず俗にあらず。このゆえに禿の字をもって姓とす」

と「非僧非俗」の立場を明らかにしています。この流罪の期間中に親鸞は、恵信尼と結婚して数人の子供をもうけています。越後で親鸞は、ただ流人として過していたように思われていますが、実際は盛んに念仏の布教を行なっていたようです。もちろん「非僧非俗」の立場から、民衆の一員として、念仏の尊さを説いたようです。

しかし、何らかの壁が立ちはだかったのでしょう。赦免後も2年ほど越後で布教した親鸞は、恵信尼と子供たちと一緒に関東に旅立ちます。もちろん、念仏を布教するためです。法然は流罪を契機に念仏の恩恵に浴していない田舎の人々に布教したいという強い意向を明らかにしていましたが、親鸞もそれに習ったのです。

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