インタビュー

ブッダの瞑想法――その実践と「気づき(sati)」の意味(2)

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佐藤氏へのインタビューは残暑の厳しい中行われた

Q4   瞑想をする上でよく聞く「ラベリング」とは何ですか。また、ラベリングを使う流派と使わない流派があるのですか。

ラベリングとは、いま起きている現象に相応しい簡潔な言葉で中継することで、妄想が入り込まないようにする工夫です。「わたし」という主語を廃した形で動詞を使うことで、自我を強化する認識の働きを中和します。

たとえば、お皿を洗っているときに手を「動かします」、お皿「持ちます」と、このようにラベリングします。今、起きている現象にふさわしい簡潔な動詞で中継することで、妄想が入り込まないようにするためです。人間を含むあらゆる生命はいつでも、六根(眼耳鼻舌身意)を通じて情報を取り入れる過程で妄想しているからです。

ある眼科医の先生が仰っていたんですが、人間が「眼で見る」と言っても、実際に眼から入った情報は4%しかなくて、残りの96%は頭の中にあるいろいろなデータベースから、合成して認識しているんだそうです。だから、眼から直接入った情報(ルーパ)をそのまま見ているのではなく、頭の中にもともとあるいろいろな観念・概念を組み合わせて、ある映像を合成して見ている。「眼で見る」と言いながら、実際には脳、仏教的に言い直せば「意(こころ)」で見ているということなんです。

生命のこころにある固定観念・諸々の概念には、それぞれ煩悩が付着しているんです。たとえば、「お金」と言った場合、お金という単なる言葉ですけど、それにどうしても欲が絡まってしまう。「犬」とか「猫」とか「花」とか「生ゴミ」とか、私たちが日常で用いる言葉には、ただの言葉だよといったって、そこにはいつも微妙な感情が付着している。言葉にならない概念でも、ちょっとした音とか香とか味とか感触とか、そういうものを感じるたびに、こころに煩悩が生まれるんです。

私たちがなにかの対象を見たり、聞いたり、嗅いだり、味わったりしている段階で、いつでも煩悩が生まれて、その認識が汚れてしまう。認識が汚れているということは、きちんと認識していないということですよね。それがなるべく起こらないように、簡潔な動詞で、価値が入らないように、ただそこに起こっていることがらを観察していく。それによって認識課程で起こってくるいろいろな妄想、煩悩が付着したさまざまな想念、思考の渦巻きのようなものが起こらないように抑えていくのです。それが完成したら、禅の言葉でいうところの「莫妄想」の状態になります。つまり、ラベリング=実況中継で「莫妄想」の状態を作るということです。

たとえば「今日は暑いよね」と言ったとき、すでに主観が入っています。しかし、暑さ、寒さ、それは私が感じていることですが、“暑さ”“寒さ”と言うときはデータですよね。データを受け取ったときのような状態です。暑さ寒さと言った場合には、私が入らない、あくまでデータの状態なのです。あるいは、それは単に「熱」と言ってもよいでしょう。

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