原訳「法句経(ダンマパダ)」一日一話

自我は苦しみを生むおおもと

アルボムッレ・スマナサーラ
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「一切の事物は我にあらず」(諸法無我)
と明らかな智慧をもって観るとき、
人は苦しみから遠ざかり離れる。
これが清浄になる道である。

 

                   「ダンマパダ」(279)

画像・AdobeStock

なにかを見たり、聞いたりするとき、「わたしが見た」「わたしが聞いた」というように「わたし」という実感が生まれます。事実は、たんに「見た」「聞いた」ということがあるだけなのに、「わたし」が存在し、「わたし」という固定した実体があるかのように思い込むのです。それが「自我」の正体です。
「花を見た」というとき、事実としての「花」はあります。「見た」ということも事実です。それだけなのに「わたしが」という思いばかりが先立ち、「わたしが見た」「わたしが感じた」という具合に、「わたしが」という主語が一人歩きしていくのです。事実は、見ただけで、それだけのこと。あるいは聞いただけで、それだけのことなのです。しかし、ここに「わたしが」という自我が入り込むのです。
仏教では、この「自我」こそが、苦しみを生むおおもとになると説いています。そこをもう少し、詳しく見ていきましょう。

「かれがわたしに挨拶をしなかった」という場合、たんに「挨拶をしなかった」というだけのことです。ところが、「わたしはかれの上司だ。だからかれはわたしに挨拶をするべきなのに、挨拶しなかった。けしからん」ということになりますと、そこに苦しみが生じます。それは「わたし」という思いが、争いをつくってしまうわけです。ですから安らぎを得る道は、この「わたし」という思いを捨てることにあります。

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