日本仏教を形づくった僧侶たち

「法然」-極楽往生を民衆に導いた念仏僧-

作家 武田鏡村
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多くの帰信を得た念仏

知恩院/

知恩院(写真・PIXTA)

比叡山を下りた法然は、京都東山の吉水に草庵を結びます。現在の浄土宗総本山の知恩院があるところです。念仏を唱えれば、貴賤道俗を問わず、誰でも往生することができる、とする法然の簡潔な浄土信仰は、往生を渇望する民衆の心に浸透していったのです。
これには横暴をきわめる平清盛と、それに反旗をひるがえし始める動向とが相まって、激動をはらむ不安な世情が背景になっていました。また仏法が滅びて、この世が乱れるという「末法」の時代に突入していたことも、法然が説く専修念仏に帰信する人があとを絶たなかった理由です。

治承4年(1180)、後白河法皇の皇子・以仁王が反平家の狼煙(のろし)を上げると、源頼朝や木曾義仲が平家打倒で挙兵しました。そのため各地で争乱が起きますが、それに加えて旱魃(かんばつ)や地震などの天災がつづき、全国で餓死者や疫病が続出したのです。

木曾義仲が平家を追って京都に入ったとき、法然は毎日読誦していた経典を1日だけ中断したといいます。義仲が入京したことの衝撃の強さがうかがえます。その木曾義仲もわずか半年で敗死し、平家も壇ノ浦で滅亡してしまいます。
そんなある日、法然は奈良の東大寺や興福寺を焼いて捕えられて、処刑されようとしていた平重衡に面会しています。重衡は法然に訴えました。
「私は寺院を焼いた罪業深い仏敵とされていますが、このような身でも往生がかないましょうか」
「たとえ殺生し、仏を傷つけるような十悪五逆の者といえども、それを悔いて阿弥陀如来にすがって念仏すれば、必ず往生できます」
と法然が答えると、重衡は男泣きしたといいます。

源平争乱の最中、一の谷の合戦で若い平敦盛の首を取った熊谷直実も世の無常を覚えて、法然のもとで出家しています。法然の教えに従って民衆や武士、さらには前関白の九条兼実など貴族の中にも帰信する人が多くいたのです。

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