インタビュー

ブッダの瞑想法――その実践と「気づき(sati)」の意味(3)前編

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日本テーラワーダ仏教協会(渋谷区 宗教法人)の編集局長として、仏教や瞑想に関する情報発信を長年続けてきた佐藤哲朗さんに、ヴィパッサナー瞑想法のあらましと、実践にあたって理解すべきポイント、また初心者が陥りやすい誤解などについて伺いました。4回にわたって連載します。

日本テーラワーダ仏教協会:アルボムッレ・スマナサーラ長老の指導のもと、お釈迦さまの教え(初期仏教)を社会に紹介し、人々が法を学び修行できる環境を整え、生きとし生けるものが幸福に達するためのお手伝いをする目的で活動している。

インタビューに答える、日本テーラワーダ協会編集局長・佐藤哲朗氏(撮影:一ノ瀬健太)

Q1 瞑想をして到るところは、具体的には、どんな境地なんでしょうか。

仏教の専門用語では「解脱」とか「涅槃」と言われる境地ですが、要するに「無執着」、一切の執着がない状態です。われわれのこの苦しみというもの、何かが不安とか、不満とか、なんか変だな、と思うような違和感とか、そういうものから完全に解放された、という世界ですね。

つまり、欲とか怒りとか無知に引きずり回されて生きているような状態から、完全に解放されてホッとしている境地と言えるのではないでしょうか。ホッとすると言っても、一時的にホッとするんじゃなくて、本当にとことん落ち着いていて、別段、それ以上何かしなければ、ということもない。やるべきことはやりおえた、という終了宣言。それが仏教の瞑想で達すべきところですね。

解脱・涅槃の同義語はいろいろあります。私が個人的に気に入っているのは「アナーラヤ(anālaya)」という言葉で、これも「無執着・無愛着」と訳されている。ほかには、恐れがない(無畏)、怒りがない(無瞋)、欲を離れた(離貪)、老いることがない(不老)、死ぬことがない(不死)、こころの汚れがない(無漏)、現象世界を離れている(無為)、真理、幸福、彼岸、未曾有、そういった言葉でも表現されていますね。そうやって、最終的な究極のゴールは様々な単語で語られています。

――老いることがない、死ぬことがない、というのは?

最終的な究極のゴールは様々な単語で語られているのですが、お釈迦さまはこれらを列挙した経典のなかで、単語はいろいろあっても意味するものは同じく、「貪瞋痴(欲・怒り・無知)の滅尽」なのだと明言されています。ですから、老いることがない、死ぬことがない、とは、「一切の煩悩がない」という意味なのです。

でも、不老・不死というのは、ちょっと挑戦的な表現ですよね。老いたり死んだりするっていうのは、自然法則じゃないですか。でも人間なにが問題かというと、老いたり死んだりすることにおびえたり、それを嫌悪して、なんとか遠ざけようとしたりすることです。そこで、また別な苦しみ、余計な苦しみが生まれることになるのです。それは、あえて作った精神的な苦です。しかし、この苦しみにもまた実体はない。

肉体が壊れていくこと自体は別に普通のことなので、それ自体は存在苦と言いますか、存在そのものとセットになっている苦なので、ある意味どうしょうもないことです。腕をつねったら痛いのは当たり前でしょう、くらいの話ですよね。しかし、その当たり前の真理としっかり向き合うことを生命はだれもが避けている。「不老」「不死」とは、その矛盾を突いた言葉なんです。

お釈迦さまは要するに、老いること、死ぬことをまったく恐れない、特別視して怯えない境地を「不老」「不死」という単語で表現しているのです。これは人間に限らず、ふつうに生きている生命体にはあり得ないことです。老いも、死も、恐怖とセットであって、恐怖を欠いた老いも死も存在しない。そういう意味で、仏道を完成して無執着に達したならば、もう老いることからも、死ぬことからも、解放されているのです。

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