インタビュー

ブッダの瞑想法――その実践と「気づき(sati)」の意味(3)後編

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――なるほど。そういえば、四諦八正道って倫理の教科書に載っていたような気がします。できれば、もう少しわかりやすく教えてもらえませんか。

そうですね。①欲愛は、わかりやすいと思います。われわれが目で見て、耳で聞いて、鼻で匂いを嗅いで、舌で味わって、体で何かに触れるっていう感覚への依存ですね。よく私たち、「食べ過ぎちゃう」って言うじゃないですか? まぁ、皆さん誰もが悩むことだと思うんですけど……。

「食べ過ぎちゃう」って。考えてみたら変ですよ。だって人間の身体には食べるべき適正な量があるんですから。その分だけ、摂取すればいいだけじゃないですか。それなのに美味しいものを見ると目がない状態になって食べちゃいますよね。お酒とかも、なんか別に呑まなくても良いのに、ガバガバ呑んじゃいますよね。

「食べ過ぎちゃう」のは変なことなのに、なぜ「食べ過ぎちゃう」かというと、結局、感覚の刺激を求めているからなんですよ。食べることによって、栄養を取るんじゃなくて、感覚の刺激を求めちゃうんですね。感覚は胃袋のリミットを超えても「もっと刺激をくれ、もっと、もっと」と渇きを満たそうと騒ぐから、ついつい食べ過ぎちゃって後でたいへんなことになるんです。

感覚の刺激を求めて、その元々の「食べる」という目的がどっかに行っちゃう。食べること自体が感覚の刺激を求めることとセットになっちゃっているのです。それが、わかり易い①欲愛ですよ。頭でわかっていても、渇愛だから、これは止められない。

それともう一つ、生命にはさらに基本的な②存在への渇き(有愛)――生きていきたいという衝動があるんですよ。われわれ人類がこんな文明社会を作り上げていったのも、すべて“生きていきたい”という衝動のなせる業であって、そのために、いろんな複雑なシステムを作り上げたんです。人類の文明も文化も科学技術の発展も、煎じ詰めれば全部、生きるためにやっているってことになりますよね。生きるためにいろんなことを、バカなことも含めていろんなことをやっているのですが、これも渇愛ですから、どうしようもない衝動なのです。

③虚無への渇き(無有愛)――これはいろんな説明がされているんだけど、わかりやすく言っちゃえば破壊衝動です。自分が存立している世界を、もう全てを破壊したくなっちゃう衝動。テロリストの行動原理みたいなものですね。そういうものも世の中に満ちあふれています。友敵理論じゃないですけど、敵と味方がいて、気に入らない敵は殲滅(せんめつ)すればよいのだ、みたいな。そういう渇愛があって、これも止められないですよね。

もう一つの説明としては、虐待などで心に深い傷を負った人々が口にするフレーズだそうですが、「(この世界から)消えたい」という衝動も、虚無への渇きと言っていいと思います。人間同士が愛着でつながった親密な世界から切り離されて、宇宙にたった一人放り出されたような気持ちでいる。そうすると、「自分」という実感そのものがナイフのように自分自身を切り裂くんです。そこで、「消えてしまいたい」という虚無への渇きが顔を出す。

そういうわけで、わかりやすい①欲愛から、何かのきっかけで顔を出す②有愛③無有愛まで、三種類の渇愛があるのです。

 

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