インタビュー

ブッダの瞑想法――その実践と「気づき(sati)」の意味(3)後編

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佐藤氏が敬愛してやまない、指導者 アルボムッレ・スマナサーラ師(撮影:加納智美)

――一切の悩み・苦しみの原因はこの三種類の渇き(渇愛)であると。では、この渇きは何を原因にして起こるんでしょうか。

仏教ではすごくシンプルに説明しています。なんか拍子抜けするぐらいシンプルなんですが、つぎのように教えるのです。

生命には、眼・耳・鼻・舌・身(身体)・意(こころ)という六つの感覚器官があります。仏教では、「意(こころ)」も感覚器官に数えるんですね。つまりあれこれ考えることも感覚の一種に含めている。そこで、眼に色(色・形)という対象が触れます。耳には声(音)が、鼻には香(匂い)が、舌には味が、身には触(熱と固さ)が、意には法(もろもろの概念・アイデア)が触れます。触れると、それぞれの場所で感覚が生じます。感覚が生じたところから、さまざまな渇愛が、ワーっと竜巻のように生まれてくるんだって言うのです。

感覚という原因から渇愛が生まれてくる。要するに、眼に色・形が触れると、瞬時にパッと眼の感覚が起きて、そこからもう、すごい勢いで欲や怒り(渇愛)が生まれると説いているのです。

たとえば異性が好きな男性だったら、自分がキレイだと思っている、好みの女性の髪がサーッと風になびいている光景がふと眼に入ると、その瞬間に、もう妄想・欲望の渦巻きが生まれてくるわけです。ほんとは、眼という感覚器官に触れるのは「色(ルーパ)」という情報に過ぎないのですが、そこで視覚が生まれて、視覚からオートマティックに渇愛が生じる。第二回目のインタビュー記事で言いましたが、人間が「眼で見る」と言っても、実際に眼から入った情報は4%しかなくて、残りの96%は頭の中にあるいろいろなデータベースから、合成して認識しているそうです。そのデータベースがそもそも煩悩まみれなのですから、眼で見たら、瞬時に渇愛というアウトプットが起きてしまうんです。

これは①欲愛の起こり方の例ですが、②存在への渇き(有愛)の場合は、どういうふうに生まれるんでしょうね。例えば、「あなた癌ですよ、余命三ヶ月だから覚悟してください」って言われたら、その瞬間に、もうものすごい、居ても立ってもいられないような焦りと恐怖感が湧き上がってくると思うんですね。だけど、自分の知らない人が癌宣告を受けたと聞いても、あるいは死んだと聞いても、ただの情報ですよ。それが自分ごとになった途端、ものすごい勢いで、「生きていきたい」っていう有愛の衝動が湧き上がってくるんですよね。

われわれの年代だと、定期健診を受けてお医者さんから「〇〇の数値が悪い」と言われると、しばらくは真面目に栄養士さんの指示に従って節制したりしますよね。あれも、欲愛のままに生きたツケが回って、生存が脅かされそうになったところで、一時的に有愛が主導権を握ったということになります。

あとは③虚無への渇き(無有愛)にしても、感覚から起こることには変わりありません。ヘイトスピーチ(差別扇動)のような危険なアイデア(法)が意(こころ)に触れ続けることで、「異教徒は根絶やしにしなくてはいけない」「〇〇国の連中は滅ぼさなくてはいけない」というような衝動が掻き立てられてしまう。あるいは、精神的な病で感覚器官に幕がかかったような、砂をかむような辛い感覚を受け続けることで、「消えたい」という、虚無への渇望が生じてきたりする。

こういう三種類の渇き(渇愛)は、すべて感覚から生まれてくる――そう仏教は説くのです。一見、非常にシンプルな考え方ですよね。

そこで最初に戻るのですが、三種類の渇きの前提になっているのも、やっぱり「わたし」「わたしの」「わたしのもの」という自我の錯覚なんですね。五欲を追い求めて「わたしのもの」にしたがる衝動(欲愛)、「わたし」という存在をなんとかして生かそうとする衝動(有愛)、それから、「わたし」に敵対する世界を破壊したい、あるいは世界から疎外された「わたし」を消し去りたいという衝動(無有愛)すら、結局は「わたし」という自我の錯覚が前提になっているんです。ですから、どんな渇愛であれ、「わたし」を再生産しようとする輪廻転生のエネルギーになってしまう。

 

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