インタビュー

ブッダの瞑想法――その実践と「気づき(sati)」の意味(3)後編

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寺猫サーリー「生きとし生けるものが幸せでありますように」

感覚という縁から渇愛が生じる、というのは十二支縁起の説明ですが、実際にはもっと微細なプロセスがそこにあるんですね。例えば、『密玉経』という経典で、阿羅漢のマハーカッチャーナ尊者は感覚から煩悩の渦巻きが生まれるプロセスをこう解説されています。

「友らよ、眼と色を縁として、眼識が生じます。三者の結合によって接触(触)が生じます。触を縁として感覚(受)が生じます。感受するもの(所縁)を概念化します。概念化した所縁を思考します。思考した所縁を捏造(パパンチャ)します。それより捏造する人に、過去・現在・未来の眼に知られるもろもろの色について、さまざまな捏造された妄想が起こります。」

さすがに大阿羅漢の言葉だけあって、認識から膨大な幻覚の世界を作り出す、「わたし」劇場の舞台裏が見事に説明されていると思います。このように細かく説明しようと思えばいくらでも詳細にできますが、大切なポイントは、そこに原因があるから、結果がある、ということなんです。「これが有るゆえに、かれが有る。これが無ければ、かれが無い。これ生ずるがゆえに、かれ生ず。これ滅するがゆえに、かれ滅す」という、お釈迦さまが説かれた一番シンプルな因果法則の公式があります。観察を通して、自分自身でその因果法則を発見して、なるほどと納得するんです。

気づき(sati)の実践を続けることで、一切の悩み・苦しみは渇愛という原因によって生まれ、その原因がなくなれば悩み・苦しみも消えるのだとわかる。お釈迦さまの教えはそのとおりだな、と腑に落ちる。誰もが四六時中やっている認識というプロセスを気づき(sati)で観察して、因果法則の中にすべてがあって、一切の現象は因縁の流れでしかない、という真理を発見して、納得する。その納得の深まり度合いによって、「わたし」「わたしの」「わたしのもの」という自我の錯覚が壊れていって、自我の錯覚を前提とした渇愛も滅していって、四段階で修行が完成する、ということなのです。

 

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