インタビュー

ティク・ナット・ハン「マインドフルネス」が上陸した日 その4

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——マインドフルネスは、対症療法的に行われるべきものではないということですね。 マインドフルネスが「ちょうどいいところに収まって」いる状態、ということを教えていただきました。それは悩みがあっても、ある程度、何らかの症状を抱えていても、ということなのですね。

そうなんです。いい時はいいなりに、悪い時は悪いなりに、どう転んでもちょうどいいのだから、ただそれを見守っていきましょうということです。それをやっていると相手も——あえて相手と言いますが——見つめる対象である、心も、呼吸も、身体も、そしておそらく人生全体もちょうどいいところに収まっていくのです。

それをやっているのがマインドフルネスなんだということが、ティク・ナット・ハンの著作に親しんだり、ご本人に接していたりして明らかにわかってきました—— 一切操作してないんだ、と。むしろ「呼吸ってなんだろう」「体ってなんだろう」「心ってなんだろう」と、こちらから問いかけるように深く見ていく。

「ゆとり家」の床の間にあるティク・ナット・ハン師による翻訳『般若心経』冒頭部分の一節。“Listen Sariputra: form is emptiness and emptiness is form. Form does not differ from emptiness and emptiness does not differ from form. The same is true with feelings, perceptions, mental functions and consciousness.” と読める。

「ああ、そうなんだ」「こうなっているんだ」と〈認めて〉あげると、つまり信頼感をもって見ているうちに、自ずからそれが収まるべきところに収まっていくという感じです。

僕は自分を通して実験してみて「なるほど、その通りだ」と納得できました。訳書『ブッダの〈呼吸〉の瞑想』に即して言えば、ブッダがやってくれるのです、私が歩かなくても。

ですから、あまりにも自分の歩き方に、「ちゃんと気づいているか、気づいているか」と繰り返し念押しをしなくても、それはブッダがやってくれるのです。ブッタがやってくれるのですから、そんなに細かく気づかなくても「よし、順調にいっている、いっている」ということなんです。そのあたりが、この本『ブッダの〈呼吸〉の瞑想』の冒頭の韓国での歩く瞑想のエピソードで書かれているように、ティク・ナット・ハンはすごいなと思いました。

僕が楽になった経緯も、最初からティク・ナット・ハンに出会って、教えられることでわかったわけではないのですが、自分で孤軍奮闘しながらやってきた経緯が、ティク・ナット・ハンが言っていることとバッチリ合って、その通りだと腑に落ちました。

それが自分を忘れるということでした。忘れれば、ちょうどいいところに自分が収まるから、何があってもそれに任せていこう、という意味です。そこらあたりの、押したり引いたりの感覚が掴めてくるという感じがしました。ほうっておけば自然にそうなるというわけではありません。注意深く見守りながら、寄り添って一緒に行く感じです。マインドフルネスでは、ほうっといたり無視するのではなく、ちゃんと見ているんですが過干渉にはならない。過干渉にならず、ネグレクトもしないという見守り方と言えそうです。

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