アルボムッレ・スマナサーラ長老インタビュー

ストレスを生み出す「貪瞋痴」 その2

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――なぜ、そのようなことになってしまうのでしょうか。

それには理由があります。理由はじつに簡単です。自分が正しいと思い込んでいるのです。世界は自分の思い通りに動くべきだと思っているのです。だから人から「お前はバカじゃない?」と言われたら腹が立つのです。「バカと言いやがった、この完璧な俺に向かって」と。でも「ああ、そうですか。教えてくれてありがとうございます」。本当はただそれだけの話でしょ。違いますか?

機嫌の悪い人から、「お前、バカだよ」と言われたら、「教えてくれてありがとう」と返してみたら如何でしょうか。すると相手の怒りが消えて、こちらの怒りもなくなって、お互いすばらしい笑顔になり、楽しい世界が顕われるのです。

スマナサーラ長老の奥で積極的にインタビューに参加する寺猫のサーリー

それを言えるのは「自分は完璧じゃない。単なる生命体だ」と思えたときです。そう思えたら出来るのです! でもそれがなかなかできません。なぜでしょうか。自己愛が強烈にはたらいているからです。自己愛ほど強烈なものはありません。そこで私は「自分こそ正しいだなんて〝大間違い〟」と初期仏教の教えに則って強く言うのですが、世間の人は聞く耳をもちません。そんなことあり得ないと言うのです。あり得ないどころじゃない。厳然としてあるんです。

私たちは自分が正しいという前提で生きています。たとえば、奥さんとケンカしたりね。ケンカにならずとも怒ったりするでしょ。その場合も、自分が正しいと思い込んでいるのです。

「なんでお前、そんなこと言うんだ」って不満をぶつけませんか。人には人の立場があって、モノの見方があって、それを表出しているだけのことです。もちろん自分は自分で同じことをしている。お互いぶつかり合ったからといって怒る必要はないでしょう。「ああ、意見が違うんだ」。それだけのことなのです。ですから極めて単純なこと。それがわからないんですね。本当にシンプルなのです。

結局はそれも自我(エゴ)なのです。自我というのは、自分が正しい、大事、尊い、他の何よりも価値があるんだという感情が山ほど入った幻覚なのです。完璧だと思っているのです。

本当のことを言えば、完璧ということなど存在においてあり得ません。完璧な存在などないのです。なぜなら、存在というものは、不完全だからこそ成り立っているからです。

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