アルボムッレ・スマナサーラ長老インタビュー

ストレスを生み出す「貪瞋痴」 その3

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日本テーラワーダ仏教協会のアルボムッレ・スマナサーラ長老に「ストレスを生み出すものは何か」というテーマでお話を伺いました。私たちを悩ますストレスの正体、その対処法(ストレス・マネージメント)にとどまらず、テーラワーダ仏教から見たストレスの本質について、詳しく教えていただきました。全4回にわたってお送りします。今回は、その3回目。

――ストレスと言えば、昨今、いじめが大きな社会問題として取り上げられています。子どもの世界でのそれは解決すべき緊急のテーマですし、大人の世界でも、さまざまなハラスメントがクローズアップされています。この問題について、仏教からの回答はどのようなものになるでしょうか。

そもそもいじめる側、いじめられる側双方がストレスを抱えています。人は自分のストレスを発散するために他者をいじめるわけです。自分が穏やかで明るければ人をいじめる必要はないはずです。いじめられる側も同じようにストレスを抱えているはずです。

日本テーラワーダ仏教協会・アルボムッレ・スマナサーラ長老(幡ヶ谷・ゴータミー精舎にて)

いじめられる側は必ず怒りで反応します。いじめを受けて感じる嫌な気持ちは、自分自身に向かうと落ち込みますし、他人に向かうと乱暴なことになったりする。それも結局は怒りの反応ですから、物事を上手く処理することはできません。

いじめられる側はもちろん被害者です。いじめを受けるときのストレスは相当なもので、いじめは決して許されるものではありません。

いじめというのは、年齢や社会的、文化的な違いでその受け止め方、解釈の違いも生じてきます。例えば私の母国スリランカでは、人をからかって遊ぶ文化があります。お互いにからかい合い、笑い、騒いだりするのです。しかしそれをそのまま日本に持ってくると、すごく失礼な態度ということになります。ですからいじめを考える場合、文化的な違いも考慮に入れなければならないと思います。

そんな文化を持つスリランカでもいじめはあります。だからと言って、人をからかっただけで、いじめだとは思われません。いじめというのは、同じ行為であっても、文化や習慣などによって、いじめになるかならないかが変わります。ちょっと複雑な問題なんですね。「お前、アホか」と言うことが、いじめになるかならないかは、地域の文化やその場の雰囲気で決まってくるものなのです。

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