インタビュー

レポート「英語で語り直す仏教」

藤田一照・田口ランディ
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田口 では、仏教のもう少し具体的な話に入りたいんですけど。私たちが普段使っている仏教用語を一照さん的に英語に直すと、どういうニュアンスになるのか具体的に聞いていきたいんですよ。

藤田 そういうの好きですよ。クイズっぽくて。

田口 「無我の境地」っていうのはどんな感じなんですか?

藤田 「無我の境地」って、あんまり仏典には出てこないですけどね。無我ですか。普通はno selfです。あるいは、non-selfですね。

selfが無いってのが、「無我」ですよね。non-selfっていうのは「非我」。これも議論があってですね。「我」っていうものが無いっていうのが一般的な言い方ですけど。

僕らが「我」だと思いこんでいるものは、「我」じゃないよっていうのが、「非我」。「我に非ず」ですからね。ニュアンス違うでしょ。これだったら、例えば「真我」ってのがあっても良いわけですよ。

田口 私達が思い込んでいるものは「我」じゃないよ。

藤田 ブッダはそういう言い方の方が多いっていう印象があります。原語はアナートマン。「a」と「ātman」をつなぐために「anatman」という風にしているんだけど。これは、「a+ātman」 なのね。「ātman(アートマン)」っていうのが「我」っていう意味ですね。この「我」っていうのが、中国語の翻訳だと「常一主宰」っていう定義になってます。もうこれだけで痒くなるような、アレルギーが出てくるような感じですね。

田口 なにそれっ!

藤田 ātmanっていうのを、中国語で「我」って訳しているんです。これは「私」っていう意味ではないんですよね。仏教の文脈だと、「我」っていうのは、「常一主宰」の存在って言われていて、これは変化しないっていう意味で、「常」。それから「一」っていうのは、一つしかないっていう意味でね。「主宰」っていうのは、「主人公」みたいな意味ですよ。

「俺」が、「主体になってる」っていう。だから変化することのないものが一つあって、これがすべてを主宰している。自分で自分を存在させることができて、だから変わることがないっていう、そういう存在のことを「我」って言うんですよ。

「我」というものがある。アートマンがあるっていうのは、インドの主流のスピリチュアリティの大前提なんです。ブッダはそれに棹さして、「それは我ではない」っていう。アートマンとみんな思っているけど、実はブッダの言い方だとそれは「五蘊」から出来ている。構成要素で出来ているんだから一つじゃなくて、いろんな要素から出来ている。要素が変化すれば変わるので、「常」じゃないし、それから「主宰」じゃない。「主宰」だと、本人が思い込んでいるけど、実はあるプロセスの結果でしかなくて、プロセスを私がコントロールしているんじゃないという論法で、それは「我」ではない。どれもこれもみな「我」ではない。結局、「無我」だと言う。

問題は、「我」が無いっていうのは、言い切りになっちゃう。ブッダって言い切らないんですよ。僕からすると、「あなたが我だと思っているのは我じゃないよ」。そこで止めているんですね。さらにいって、「我」は無いんだって言ったら一定の主張になるし、議論になるし、形而上学になってしまうでしょ。

だから、no selfと訳すとそれは「無我」を訳しているけど、non-selfだと「非我」っていう意味。まあ、それほど違わないけど。

田口 でも、かなりニュアンスが違いますよね。no selfとnon-self。

藤田 この「我」も日本語の中の「俺」っていうふうに思われている。「無我の境地」というと「滅私奉公」的なニュアンスで思ってるかもしれませんね。「私はとても無我には成れません」と言ってね。

「無我」ってなるもんじゃない。すでに「無我」なんですよ。「無我」で生きている訳なんです。「無我」なのに、「我」だと思い込んでいるっていうことを仏教は問題にする。

田口 すでに「無我」なのに、「我」だと思い込んでいる。

藤田 なので、思いがためた「我」を手放せない。

田口 手放せないから、「常一主宰」になろうとする訳ですね。

藤田 そうそうそう。でもほんとうは「我」は錯覚である。

田口 だから「照見五蘊皆空(しょうけんごうんかいくう)」。

藤田 Self is an illusion. あるいは、「無我」と言わず、illusionary self と言ったりするんです。illusionというのは、蜃気楼みたいにある条件で、そこにいかにもあるように見えているけど、実体のないものです。

田口 Illusionary self. 実体のない私。

藤田 思い込みの中にしかない。

田口 もともとはno self。

藤田 あるいは non-self。

田口 no selfなんだけど、non-self。

藤田 non-selfからno selfへはひとつ、ジャンプしないとダメです。「我」は無いっていうのは、日本の仏教ではみんな言ってます。

田口 みんな言ってます。

藤田 その前にnon-self という洞窟というか段階を経ないと「無我」って信仰対象になってしまうと思うんですよ。

田口 なるほど「無我」になるために頑張っちゃったら全然「無我」じゃない。

藤田 「我」で「無我仕草」している。魚川祐司さんが、僕との対談本で良く言う表現。日本の仏教徒は「無我、無我」っていうけど、「我」が「無我仕草」しているだけだ。それあたっていると思いますけどね。これは「我」ではない、これは「我」ではないって non-self を見ていったら、「なるほど。我はほとんどどこにも無いわ」ってなればいいわけですよね。そういう作業なしでいきなりno selfっていうのは、「仕草」するしかないかもしれない。普通の人はね。

田口 いきなりそこに入っちゃうとself illusion に捕まってしまう。

藤田 「無我」という「我」の表現になってしまう。

田口 おもしろいですね。わかりやすいです。

藤田 英語でもう一回、縦の仏教を横の仏教にする時に、仏教の整理ができたんだって感じが、僕はしますね。

田口 なるほど。

藤田 ぼわーっと分かっている事の中に、柱立てて建物をつくっていくみたいな。アメリカではそういう構造物にしていく必要があったかな。そうすると今まで、こことここが関係がなかったように見えてたことが、こうなんか繋がっていく感じがしました。英語で仏教をあらためて学べて僕はすごくラッキーだったと思いますね。

藤田一照さんと田口ランディさんの対談完全版は、
この夏発売の『サンガ』でお読みいただけます。

藤田一照
1954年、愛媛県生まれ。東京大学大学院で発達心理学を専攻。院生時代に坐禅に出会い29歳で得度。33歳で渡米し、マサチューセッツ州ヴァレー禅堂で坐禅を指導。2005年に帰国し現在も、坐禅の研究・指導にあたっている。
著書に『現代坐禅講義』(佼成出版社)、共著に『アップデートする仏教』(幻冬舎新書)、『〈仏教3.0〉を哲学する』(春秋社)、『仏教サイコロジー』(サンガ)など多数。

田口ランディ

1959年東京生まれ。『コンセント』『アンテナ』『モザイク』(すべて幻冬舎)で人間の潜在意識と性や暴力の象徴的意味を描く。作品が海外でも評価され、アメリカ、イタリア、ルーマニア、中国、韓国、シンガポールなど多言語に翻訳される。『コンセント』『アンテナ』は映画化され、『アンテナ』はヴェネチア映画祭出展作品となる。その後は社会的な事件や、童話など、幅広く執筆。最新作『逆さに吊るされた男』(河出書房新社)は地下鉄サリン事件を題材に描いた私小説。

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