対談

藤田一照 プラユキ・ナラテボー対談:「大乗と小乗を乗り越え結び合う道」 その1

藤田一照・プラユキ・ナラテボー
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――いよいよ、むずかしいですね。歴史的にそういった要求が、仏教の中に現にあったということですね。「劣乗」という蔑称は論外にしても、小乗仏教という言葉を、歴史的経緯を無視して、単に不適切と考える立場から「言葉狩り」のように扱うことは控えなければなりませんね。ところで、大乗・小乗という言葉を使わない、という立場を採る人たちもいるようですが。

一照 アメリカでヴィパッサナーを教えているジャック・コーンフィールドさんとかジョセフ・ゴールドシュタインさんとか、インサイト・メディテーション・ソサエティ(IMS)を作った人たちは「ワンダルマ」って言い方をしているんですよ。

要するに仏法は一つしかないはずだ、と。それが不幸にしていろんな事情で分かれてしまったけれど、さっきも言ったようにグローバルな時代においては一つに収斂する必要がある。それで彼らは「ワンダルマ」って言っているんです。

僕から見ると、そのワンダルマをどこに持ってくるかというと、やっぱりテーラワーダなんですよ、彼らにとっては。

プラユキ ほほう。やはり、そういうことになりますか。

一照  多様性と統一性というようなことが、この地球上で、政治的にも言われていますけど、だいたい統一しようとするときは、自分のところに統一しようとする傾向があるわけです。

統一を声高に叫べば叫ぶほど、分裂が生まれるという皮肉がいろんな局面で起きていて、仏教でもワンダルマと言ったときに、ワンダルマの〝ワン〟はどこなのかというと、大抵は声を挙げている人の信奉しているところであって、他の伝統をそこに持って来ようとする傾向がある。だから難しいですよ、ワンダルマと言ってもね。心意気はいいのだけれど、実現するのはなかなか難しいようです。

――ありがとうございました。プラユキさんからは、タイのテーラワーダ仏教の本質に立脚したグローバルな姿をご紹介いただきました。また、一照さんからは、教義の捉え方、本質的なダルマの捉え方に、架橋できないギャップがあるのではないか、という極めて重大なお話が出てまいりました。次回には、上座仏教と大乗仏教の教義の違いなどにも触れていただき、さらに議論を深めていただこうと思います。

 

藤田一照
1954年、愛媛県生まれ。webサイト寺院「磨塼寺」住職。東京大学大学院(発達心理学専攻)を中途退学し、兵庫県新温泉町、安泰寺にて得度(29歳)。33歳で単身渡米し、マサチューセッツ州ヴァレー禅堂に住持。2005年に帰国、坐禅指導にあたる。著書に『現代坐禅講義—只管打坐への道』(佼成出版社)。プラユキ・ナラテボー師との共著に『仏教サイコロジー—魂を癒すセラピューティックなアプローチ』(サンガ)がある。
プラユキ・ナラテボー
1962年、埼玉県生まれ。タイ・スカトー寺副住職。上智大学哲学科卒業。大学在学中よりボランティアやNGO活動に専念。タイのチュラロンコン大学大学院に留学し、農村開発におけるタイ僧侶の役割を研究。1988年、ルアンポー・カムキアン師のもとにて出家。著書に『「気づきの瞑想」を生きる—タイで出家した日本人僧の物語 』。監訳書に『「気づきの瞑想」で得た苦しまない生き方』(共に佼成出版社)がある。
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