インタビュー

藤田一照 プラユキ・ナラテボー対談:「大乗と小乗を乗り越え結び合う道」 その3

藤田一照・プラユキ・ナラテボー
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——プラユキさん、テーラワーダのお立場から、今の一照さんの見解をどうお聞きになりましたか。

プラユキ 率直に言ってテーラワーダ仏教には、今、一照さんがおっしゃられたような態度は薄いという感じがしています。

より人間を細かく観察していき〈縁起〉を見ていく。因(直接原因)と縁(間接条件)の関係性を通して苦しみがどのように生まれ、どのようにしたら消えるか。そうした現象のダイナミックなプロセスや構造を観察、洞察していき、現実に即して苦しみを滅していこうとします。ですから、あまり無限というようなスケールの大きな話は聞きませんね。

一照 大乗経典って、だいたいそういうスケールの大きい世界観を持っているようです。

プラユキ 「法華経」にしても、「般若心経」にしても、やはりすごく壮大なストーリーや抽象度の高い世界観がありますね。私も若い頃、「法華経」についてはそれなりに詳しく、「般若経典」にはザっとですが目を通しました。そこには「悟(り)」という語句もたくさん出てきますよね。

大乗経典に頻出するこの「悟(り)」ですが、皮肉なことに、「テーラワーダ仏教では「『悟り』を重視する」。もっと言えば「悟りは、テーラワーダ仏教の専売特許だ」という捉えられ方をされる事さえもあります。ですが実際には、テーラワーダ仏教が一番強調するところは、煩悩の滅→苦の滅=涅槃、ということなのです。

その際、自分だけではなく、もちろん他者も含めます。一切衆生、生きとし生けるものの抜苦与楽を実践的に実現していく。「悟り」は苦を滅するための条件であり、目的は苦の滅にある、ということです。

そういったニュアンスが大きいためか、「つながり」の世界、空とか無とか無限の世界ということに関しては、自分自身あまり関心を持ってこなかったということは、確かにあります。

一照 テーラワーダ仏教が「煩悩の滅」を目的とするならば、大乗仏教にはさらにその先に「分別の滅」があります。大乗は「人無我(にんむが)」と「法無我(ほうむが)」ということを言います。大乗はこの二つの空、「二空」を標榜しています。煩悩の滅なら人無我でいいかもしれませんが、分別の滅には法無我がいります。

人無我は、個人の「空」です。個人の「空」を言うのに初期仏教は「五蘊(*1)」を持ち出しました。五蘊でできている人は無我だけど、身心を構成する「五蘊」そのものは無我ではなく、〈有る〉と考えたのが「説一切有部」です。「法体恒有」という表現がありますよね。

*1 五蘊…人間を成り立たせている五つの要素。色(物質)、受(感受)、想(表象)、行(意思)、識(認識)

彼らは、「人空」(人という実体は無い)は言います。だけど「法」の実体はある、としました。一方、大乗は「法」にも実体は無いとして「法空」とし、合わせて「二空」を説きました。「人空」「法空」——「人無我」「法無我」とも言いますね。これが大乗仏教の根本教義です。

プラユキ 実は、タイで数年前ですが、サンガにも属している一派が「法体恒有」を主張しだして、「仏法」の著者でもあるパユットー師をはじめとした良識ある僧侶たちから猛批判を受けるという「事件」がありました。原文は「sabbe dhammā anattā」ですから、もちろん諸法無我です。テーラワーダでは五蘊そのものを認めていますが、五蘊それ自体はすべて縁起によって消滅する現象(法)ゆえに「無我」である、ということです。

——この対談「その1」でまず話題とした「説一切有部」の「法」に対する解釈ですね。タイ・テーラワーダにおいても、大乗の説く「法無我」を根本教義に据えているというわけです。現代でも、その議論が再燃したという興味深いお話でしたが、いずれにせよ、大乗、あるいは小乗と呼ばれてきたテーラワーダ仏教両者の「法」への基本的合意がそこには見られるわけです。これは決して見逃してはならないことでしょう。今日伝わる「小乗」の語への反省の所以がそこにはあるわけです。

この対談企画の目指したところ「大・小乗を乗り越え手を結びあう」ための大きなヒント、ひとつの方向性をプラユキさんからいただきました。誠にありがとうございます。

今回「その3」でも、大乗の根本教義、仏教を学ぶとき、けっして動かせない基本となる姿勢を一照さんには、さらに教えていただきました。もう少し根本分裂など、インド初期仏教の歴史についてのコメント、ご教示いただけることはございませんか

一照 インド初期仏教の分派の歴史については、僕は詳しくありません。
友人に馬場紀寿(ばば のりひさ)君と言う仏教学者がいます。岩波新書から昨年8月『初期仏教:ブッダの思想をたどる』を上梓した研究者です。

——はい。あの本はずいぶん話題になりましたね。記憶に新しいところです。東京大学東洋文化研究所の准教授の方ですね。

一照 彼は僕の師匠・渡辺耕法老師(青森県出身。安泰寺で内山興正老師に嗣法。のち堂頭(どうちょう)を務めた)の甥で、まだ彼が高校生の時からの知己です。彼が高校生の時にアメリカに住んでる僕に手紙が来て文通が始まったり、禅堂にしばらく滞在したりということがあって、今では良い思い出となっています。最近はお互いに忙しくてご無沙汰になっていますが。

彼によれば、今のテーラワーダの教義というのは、ブッダゴーサ(*2)が再編集したものであって、ブッダ時代から歴史的に一貫して続いているものではない。それが彼の博士論文を基にして書かれた『上座部仏教の思想形成 ブッダからブッダゴーサへ』(春秋社)の主旨だったと思います。仏典のレトリックや文体を証左として彼は論考を展開しています。初期仏教を学びたいのであれば、彼の書いた本は参考になると思います。

*2 ブッダゴーサ(巴: Buddhaghosa、仏音(ぶっとん)。5世紀頃)。上座部仏教の代表的な注釈者。バラモンの家系に生まれるが、仏教に帰依し三蔵研究のためにスリランカに渡る。 パーリ語経典「三蔵」の注釈書(アッタカター)、『清浄道論(ヴィスッディマッガ)』(Visuddhimagga)を遺した。

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