藤田一照 プラユキ・ナラテボー対談:「大乗と小乗を乗り越え結び合う道」

藤田一照 プラユキ・ナラテボー対談:「大乗と小乗を乗り越え結び合う道」 その4

藤田一照・プラユキ・ナラテボー
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――本日も、どうぞよろしくお願いいたします。
対談「その4」を迎えました。3回の対談を終え、仏教に向き合う、その「姿勢・態度」の在り方の大切さが、いよいよキーワードになってきたように思います。

前回の対談で、プラユキさんには、「オープン・ハート」という、師のお人柄を彷彿させる魅力的なお言葉から、仏教に向き合う「姿勢・態度」についてお話を伺いました。

それは、雑念や妄想を悪い、汚いものと決めつけ、それを前提としたときに起こってくる無駄な緊張を心身から解き放ち、リラックスするための取り組み。緊張を強いる〈思い込み〉の手放しの大切さでした。

ところで「ダーナネット」では、昨年秋に、禅とマインドフルネスについての国際フォーラム「Zen2.0 第2回」@鎌倉建長寺を訪ね、その模様を取材しております。その際、英・ワット・パー・ナーナーチャーット(国際森林僧院)のアチャン・ニャーナラトー師の御法話をレポートしております。

「感じる身体・実践する心」Zen2.0レポート(2)

その御法話の中で、サレンダー(surrender)という言葉が出てきました。師は“Surrender to present moment”(今、この瞬間への降伏・手放し)という、人生の態度をとても強調されていたのです。

プラユキさんの「オープン・ハート」というお言葉、仏教に対する「態度」を拝見するにつけ、この“Surrender”という英語を想起するのですが、いかがでしょうか。

一照 そうそう、僕もそういう理解です。ゆだねるという意味の「サレンダー」は英語の仏教書によく出てくる言葉です。プラユキさんの「オープン・ハート」というのは、このサレンダーという態度に近いと感じています。オープンっていうのは、自分を開いて、いまここで起きていることを迎え入れるっていうことですから、まかせる、ゆだねるという態度です。

プラユキ はい。とても近いですね。「オープン・ハート」は、「なにが起こってきてもオッケー。おまかせよ〜」といった態度をとることで、自然に自己が明け渡されていく仕組みになっています。自己へのとらわれが苦しみの原因になっているわけですから、苦の滅にあたっては、それをいかにサレンダーしていけるかが鍵ですね。その点、認知行動療法の「脱フュージョン」(*1)。思考やイメージ、記憶との融合状態、あるいは自己同一化状態から脱していくことと軌を一にしていると思います。

*1 脱フュージョン たとえば、仕事でミスをした自責の念から「自分はダメ人間だ」と思い込む。するとそのイメージが現実と結びつき(フュージョン)、どんな時でも「ダメ人間」と自分を信じ込むようになる。
これが、認知的フュージョンと呼ばれる現象で、イメージと現実は脳内の同じ分野で処理されるために起こる錯覚である。これにたいし「脱フュージョン」とは、好ましくない認知的フュージョンを脱するために、思考のイメージと現実の自分の間に距離をとって区別する方法を言う。

一照 それは、道元禅でいえば、脱落ということに当たるでしょうね。「身心脱落」。束縛のかかった身と心から自由になった状態です。

プラユキ ああ脱落、まさにそれですね。はまり込んでいた状態から、それがはまり込みだったことをパーッと看破し、同時に放下される。「ウペッカー(巴: upekkhā)」、「捨(しゃ)」ですね。

そうしたはまり込み状態から自由になると、あるがままがあるがままに見えてくる。いままでフィルターを通して見られていた世界が、フィルターなしにはっきりと見えてくる、ということになりますね。

ある色のフィルターを通して見れば、その色合いで世界は見えてくるし、また違った色のフィルターを通して見れば、また別の色合いの世界が現出する。「世間諦」とはそういった様々な色合いを持ったフィルターを通して見る世界の様相です。一方、「真実諦」(*2)とは、フィルターなしに見えてくるあるがままの世界。こうした世間相と真実相、それぞれの縁起的な生起と消滅を見極めていくことになります。

そして、こうした展開を促していくにあたって、冒頭で述べた「オープン・ハート」や「サレンダー」といった態度が大事になってくるということですね。

*2 「世間諦」と「真実諦」 プラユキさんのTwitterより
仏教では「世間諦」と「真実諦」という二つの真理を設定。前者は言語慣習に依拠した社会通念や世間的常識で通用する原理、後者はそうした見方や考え方を超えて観る世界。世間諦は「世間体」同様、社会に一定の秩序を保つ原理ゆえに尊重はするが、同時にそうした見方からの自由をも目指すのが本来の仏道

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