インタビュー

藤田一照 プラユキ・ナラテボー対談:「大乗と小乗を乗り越え結び合う道」 その5【最終回】

藤田一照・プラユキ・ナラテボー
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——一照さん、禅のお立場からはいかがですか。禅では、うつ病を患う人への対応を避けている、そんなことも耳にしますけれども。

一照 禅の修行はもともと、治療用には出来ていませんからね。健康な人でもキツいことをやらせますからね、伝統的には。ですから、そこは十分な注意が必要です。かつて安泰寺でも、かえって症状が余計ひどくなった人がいましたからね。ストレスがかかりすぎて幻聴とかが出てきてしまって。ですから、禅を治療的な方向で応用するのなら、伝統的な禅の修行そのままではなくて、相当アレンジし直さなくてはいけないと思います。いくら素晴らしくても、禅の伝統的形態が万能というわけではありませんから。やはり善巧方便を編み出す工夫が要ります。

プラユキ 禅修行で統合失調症を発病してしまった方とか私のところにも時々やってきます。そうしたリスクもありますから、リトリート形式で厳しめに修行するゴエンカさん(在家のヴィパッサナー瞑想指導者)系の瞑想会では、精神科に通院している人や薬を常用している人は参加が難しい、と聞いています。リスクマネジメント的に正しい対応かと思いますね。

一照 禅の場合の修行の形態は、普通に生きている人がさらにその上を目指すためにメニューが用意されているのです。社会への単なる適応ではなくて、自己の本源に向かって掘り下げていく、ディープな手術をするようなものですから、危ない橋を渡るという側面も確かにあるのです。自我を一応形成し終わって、さらにそこから離脱するという話なんです。特に日本の場合は、そういうことに向かない者やまだ準備が整っていない者をまずふるい落とすようなシステムになっていますから。セラピーではなくてチャレンジのモデルなんです。ですから、そのモデルを変えない限り、心の病を抱えているような方にはちょっと合わないでしょう。元来、そういうふうにデザインされていないのですから。でも、そういう自覚のもとに、治療バージョンの禅というものを構想することは十分可能だと思いますし、面白い試みです。きっと多くの人の役に立つものになるので、ぜひ実現してもらいたいものです。

私が葉山で坐禅会を行う場合も治療のためにという方は断っていたんですよ。「ウチの旦那がうつなんですけど、預かってくれませんか」というような申し出が時々あります。私はそんなとき「うちはそういう場所ではないので、他を当たってください」とお断りしてきました。「病が治ってから来てください。けっして拒否するわけではありませんが、体力的にも精神的にも無理だと思いますし、私も責任が持てませんので」とお伝えしてきました。

プラユキさんのお話を伺っていて、手動瞑想の効果には驚きましたが、タイにも、うつ病や、精神疾患をもつ人向けにやっていらっしゃる方がいるのですか。

プラユキ ええ、います。

一照 それはすごいですね。日本でも、お坊さんの中で志を持つ人が、菩薩行としてそういう技法を習って、疾患をもつ方々の手助けができるようになればいいと思います。ですが菩薩行という言葉はよく口にはするのですが、実際には日本のお坊さんは修行時代にそのためのスキルを学ぶチャンスが余りありませんね。現時点では、個々人それぞれがそういうことを独自に学んで身につけるということにまかせている感じでしょう。

例えば、最近「日本グッドデザイン賞」を受賞した、貧困問題解決に向けてのお寺の活動 「おてらおやつクラブ」(*1)などは、ほんの小さなことから始めて、だんだん成長していき、今では、組織もしっかりしたものに成長しているのが評価されました。

昔のお坊さんは、こうしたことをあまり実践して来なかったようです。実行するとなるとなかなか大変ですから。それに比べると、今のお坊さんの中には、そういった利他の意識を持っている人が増えてきているようです。しかも、そんなに大上段に構えたり、深刻そうじゃなくて、明るく軽い感じでやっていて、とってもいいなあと僕は思っています。それは、敷居の高かった伝統的なお寺への反省にもとづいているのかもしれません。

*1 特定非営利活動法人おてらおやつクラブ
「おてらおやつクラブ」は、お寺にお供えされるさまざまな「おそなえ」を、仏さまからの「おさがり」として頂戴し、子どもをサポートする支援団体の協力の下、経済的に困難な状況にあるご家庭へ「おすそわけ」する活動。(https://otera-oyatsu.club/)

プラユキ 「未来の住職塾」の塾長もされていた松本さんが言っていましたが、塾に集う若い世代のお坊さんたちは、ひと世代前のお坊さんとは明らかに感覚が違っているようです。一照さんの言うとおり、ひと世代前は今よりも「敷居が高かった」みたいですね。

おそらくは、ひと世代前のお坊さんが、宗派に属する者の立場の厳格性を強く求められたのに対し、現代のお坊さんは、もっと自由に宗派を超えて活躍する場を与えられるようになったのかもしれませんね。

一照 だから、仏教の世界も、大乗、小乗といった差異化というか区別のための言葉は過去のものにして、もっとバラエティに富んだ、そしてもっとデモクラティックな横の関係になるようにしたいですね。同朋意識というか。固い殻を脱ぎ捨てて、もっとフレッシュな、脱皮をはかった後のようなうぶな心から、仏教のいろんなあり方が生まれてきたら嬉しいですね。

松本紹圭さんにしても、小出遙子さんのような在家の方でも、僕より下の世代から面白い方がどんどん出てきているので、それらが連動し合って、新しい土壌が出来てくるのはすごく楽しみです。同時多発的で、ネットワーク的な盛り上がりを非常に期待しています。

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