インタビュー

藤田一照 プラユキ・ナラテボー対談:「大乗と小乗を乗り越え結び合う道」 その5【最終回】

藤田一照・プラユキ・ナラテボー
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——修行に向き合う、その態度の問題ですね。

プラユキ そうですね。「苦しんで苦しんだその先に悟りや究極の幸せがやってくる」というものでは実際ありませんね。仏道の歩みをスタートしたその日からじわじわ心が楽になっていきます。大きな苦しみはだんだん小さくなって、重苦しく感じた気分も徐々に軽快で朗らかになり、一回のお悩み時間はどんどん短縮され、頻繁に起こっていた悩み苦しみは散発になっていきます。

逆に、「苦しみの先に良いことがあり、幸せの先には悪いことが起こる」などと根拠なく思い込んでいる人もいるようですが、ブッダによれば、今ここで苦しみに浸り込むことは、苦しみの習癖を作ってしまい、未来にも苦しみやすくなるという条件を設けてしまうことになる。こうした苦しみ癖パターンを作らないように注意が必要です。

それから極端なケースでは、オウム真理教にもそんな傾向があったと思うのですが、激しい苦行を長期間やると、霊験あらたかな力が得られて修行のステージが上がるとか、社会常識に反したことを敢えて実行することで自我が取れるとか、そういったおかしな文脈で修行が行われたりすると特に危険ですね。

一照 苦しまなければ得られない。楽して得られるものなど何もない。そう勘違いしているのです。だから修行を苦行的なメンタリティでとらえている人は、「低俗な世俗の人間より、俺のほうが上等な、崇高なことをやっている」と勘違いし、優越感みたいなものを抱きがちです。言うまでもなく、それはもうボタンのかけ間違いをしています。そういった不純な動機で瞑想をしたら、歪んだ人格という結果しか招きません。だから最初の段階で起こるボタンの掛け違いには、十分な注意を払わなくてはいけません。

望むらくは、「あ、俺、そういう間違った動機で今までやっていたな」。そう気づくことです。そういう転換がないと、不純な方向にしか行かないですから、苦しみの再生産にしかなりません。ブッダ自身がそういう気づきを得て、樹下に打坐した人だったと僕は考えています。平安に至る道が苦しみで敷き詰められているのはおかしいんじゃないか。平安が道でなければならないのではないかという洞察です。

正しい師匠を見習うとか、瞑想なり仏典なりを学ぶ中でそう気づけば、態度を修正し、方向を変えることが出来ます。だから、まず修行に取り組む態度が仏法に即したものでなければならないのです。エゴの満足を動機とするような、そんな態度では修行は続かないし、続けてはなりません。別の態度で行わなければいけないと早く気づくべきです。

その辺りの、修行への態度を言うときに「大乗、小乗」という言葉が使われたらいいと思うのです。見据えるべきは、仏教に向き合うときの態度なのです。

——プラユキさん、いかがでしょうか。

プラユキ 最近読んだ一照さんと魚川祐司さんの共著「感じて、ゆるす仏教」のなかで、一照さんが、order & control(命令して、コントロールする)モードと対照させて、sense & allow(感じて、ゆるす)という態度を推奨されていましたね。私が日頃からお勧めしている、信頼を基盤とした「念定慧対応(*3)」、すなわち、気づき、受け止め、理解するという態度に非常に近いものを感じました。

*3 「念定慧対応」
過去のインタビュー:「『十二因縁』苦しみの連鎖を抜ける」にリンク。(https://www.dananet.jp/?p=6047&page=4)

この対談のなかで確認してきた「大乗・小乗」はメンタリティや修行への態度の違い、という基本理解に則って言えば、苦行も含めた「order & control」モードは小乗的修行、それに対して、「sense & allow」や「念定慧対応」は大乗的修行と言っていいのではないかと思います。

というのも、私自身、この対談のなかで、「慈悲=自他の抜苦与楽を志向していれば『大乗的』である」と一貫して主張してきましたが、「sense & allow」や「念定慧対応」にはそうした慈悲的な態度が内包されているからです。

一照 ブッダが放棄したのは苦行的メンタリティでした。それをやめて菩提樹の下で坐るというところから仏教は始まっています。僕はそこが根っこだと思うので、テーラワーダ的に展開したものも、大乗的に展開したものも、たぶんそこに還れば握手できるのだと思います。

プラユキさんが教えてくれたように、ミャンマーとタイのテーラワーダでも違うし、日本の禅でいえば、大きく臨済と曹洞のふたつの流れがあるわけです。だから完全に一緒になる必要はなく、その違い、個性を認め合った上で握手し合う。そういうことになるのではないでしょうか。

——今回、道元禅師の大乗禅のお立場と、タイの上座仏教のお立場から、どうしたら「大乗と小乗を乗り越え手を結び合う道」を実現できるのか、それを5回にわたり伺ってまいりました。

修行の動機をまず点検してみる。そこに不純なものが混じり込んでいないか。それを深く内省することの大切さ。利他という仏教の本質に立ち返ったとき、我々はセクトを超えた「目指すべき仏教の姿」をとらえることが出来るのではないか、そんな仏教に向き合う時の態度について今日学ばせていただきました。5回の長きわたり、本当にありがとうございました。

 

藤田一照
1954年、愛媛県生まれ。webサイト寺院「磨塼寺」住職。東京大学大学院(発達心理学専攻)を中途退学し、兵庫県新温泉町、安泰寺にて得度(29歳)。33歳で単身渡米し、マサチューセッツ州ヴァレー禅堂に住持。2005年に帰国、坐禅指導にあたる。著書に『現代坐禅講義—只管打坐への道』(佼成出版社)。プラユキ・ナラテボー師との共著に『仏教サイコロジー—魂を癒すセラピューティックなアプローチ』(サンガ)がある。
プラユキ・ナラテボー
1962年、埼玉県生まれ。タイ・スカトー寺副住職。上智大学哲学科卒業。大学在学中よりボランティアやNGO活動に専念。タイのチュラロンコン大学大学院に留学し、農村開発におけるタイ僧侶の役割を研究。1988年、ルアンポー・カムキアン師のもとにて出家。著書に『「気づきの瞑想」を生きる—タイで出家した日本人僧の物語 』。監訳書に『「気づきの瞑想」で得た苦しまない生き方』(共に佼成出版社)がある。
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