ニュース・レポート

寿地蔵ードヤの人びとが願い、守ったお地蔵さまー(その1)

取材/文=千羽ひとみ(フリーランスライター)
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日雇いの町に突如現れた〝一休さん〟

現在の寿町のようす。〝日雇い労働者の町〟は高齢化が進み、住民の8割が生活保護を受給している

今も1泊800~1500円のドヤと呼ばれる簡易宿泊所が建ち並ぶ寿町。
「ここの住民になりたくてなる人はいない」と、融完師はいう。

住民たちはみな、離婚や失業、病気といった人生のちょっとした掛け違いから流れ流され、この町へと辿り着く。さまざまな事情を抱えた人たちだけに、寿以前を語る人は少ないし、偽名で通す人たちも珍しくない。家族との繋がりもないに等しく、誰もが死後の供養に諦めに似た感情を持っていた。

〝死んだら俺らはガラガラポンさ〟

この町では、しばしばそんな言葉が聞かれたという。
〝死んだら骨壺をガラガラと振られ、無縁仏と書かれた墓地にポンと投げ込まれる〟
そんな意味であった。

(仏に仕えるものとして、彼らを拝んであげられたら……)
その一心で、心ならずも無縁仏となってしまった寿の人びとのため、手弁当で通夜や葬儀に通い始めた融照先代住職だったが、住民たちと接するうち、彼らの心の奥底に秘めた、本当の願いを知ることとなる。

〝縁あってここに集った仲間同士。本名や前歴はわからなくても、事故や病気で亡くなったら知った名前で追悼し、偲び偲ばれる施設が欲しい──〟
これこそが、この町の住民達の願いであり、本音だったのだ。

「激しい労務をした後にどこかに行ってお参りが出来るかといえば、それはできない。だったらこの寿町の中に、拝める場所を作りましょうと。そこから〝お地蔵さんを作りましょう〟というところに行き着いたんです」(融完師)

実はそれまでにも供養の場を作ろうという計画はあった。が、一方的に建立された供養塔は、破壊されたり落書きをされたりで、いつの間にか撤収されるのが常だっだ。
「だからこそ融照先代住職は町のみんなに協力してもらう、すなわち托鉢をして、寿の住人自身から浄財を集めて地蔵さんを建立しようと思ったのだと思います」

日雇い労働者から浄財を集め、お地蔵さんを建立する――。
そう請願した先代住職と共に、わずか5歳で、寿町で托鉢を始めたという融完師

托鉢には、前年に頭を丸めて得度した、当時5歳の融完師も同行することとなった。
「徳恩寺という寺院にいる弟子が托鉢に協力するのは当たり前。私はたまたまいただけなんです」
融完師はこう語るが、〝たまたまいただけ〟の5歳児が、思いがけない力を発揮する。

当時はテレビアニメの『一休さん(テレビ朝日系列)』が最高視聴率42%(関西地区)を集める人気番組となっていた。クリクリ頭に袈裟姿の〝リアル一休さん〟の登場は、住民たちの格好の話題となったのだ。前述したのは、その托鉢中の姿であった。
「まあ、ちょうどいい(人寄せ)パンダがいたということじゃないですか」

こうして昭和50年(1975年)春、寿地蔵建立のための托鉢行が始まった──。

(次回へ続く)

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