気づきの俳句

『気づきの俳句──俳句でマインドフルネス──』(13)

石嶌 岳
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画像・AdobeStock

水遊びする子に先生から手紙       田中裕明

子どものころ、夏休みに庭先でまるいビニールプールを広げて遊びませんでしたか。水遊びをしているところに、郵便屋さんが手紙を届けにきたのです。それは学校の先生から子ども宛の手紙です。

「夏休みを元気にやっていますか」といった内容ではないでしょうか。そんな微笑ましい世界を俳句に詠んでいます。

小鳥来るここに静かな場所がある     田中裕明

秋になりますと、小鳥たちが日本に飛来してきます。小鳥たちも森の静かな場所を知っているのでしょうね。「ここに静かな場所がある」から小鳥たちがやって来るのだと作者は気づいたのです。

ぼうふらやつくづく我の人嫌ひ      田中裕明

水たまりに湧いているボウフラを見ていると、「つくづく自分は人間嫌いなんだな」と思ったのです。一人静かに自然のなかに佇んでいるのが好きなのです。ですから旅行をしていても〈もの言はぬ旅のつれよし蝉の殻〉と呟いてしまうのです。

一生の手紙の嵩や秋つばめ        田中裕明

それにしても一生のうちで貰う手紙の量ってどのくらいなのでしょうかね。いろいろな人と縁があって仲良くなって手紙のやりとりをするのでしょう。その縁の数だけ手紙があるわけですから、その縁の数が「手紙の嵩」となって視覚化されてくるのです。

その一角が大文字消えし闇        田中裕明

京都の大文字の送り火です。大文字、妙法、船形、左大文字、鳥居形と点火されます。それは、お盆に六道の鐘を搗いてお迎えしたお精霊さん(おしょらいさん)を、お経(妙法)を唱えながら船に乗せて、彼岸の入り口である鳥居に向かうのだそうです。その大文字の火が消えた後の闇を作者は見つめているのです。

空へゆく階段のなし稲の花        田中裕明

空を見つめては、この空を上ってゆく階段はないのだと言うのです。地上では稲が花を咲かせているのですが……。天国への入り口を探しているのでしょうか。この句から有元利夫の「厳格なカノン」という絵を思い浮かべます。

糸瓜棚この世のことのよく見ゆる     田中裕明

糸瓜といいますと正岡子規の〈糸瓜咲て痰のつまりし佛かな〉を思い起こしますが、子規の末期の眼差しとこの作者の眼差しとが重なって見えてきそうです。ある距離を置くことによってすべてが見渡せるような、いわば彼岸からの視点がこの句にはあるように思われます。

この句は、句集『夜の客人』の最後に置かれています。『夜の客人』は入院中の病室でまとめられた遺句集であり、そのあとがきに、「入院生活の中でないと、本をまとめることができないのも、(中略)けがや病気であらためて、自分あるいは世界を見つめてみるということも関係あるかもしれません。」と作者は述べております。

*  *  *

私たちは春夏秋冬の移ろいのなかで暮らしています。俳句は、悠久の時間の流れのなかにあって「いま」という時間と、私たちの目の前に広がっています空間における「ここ」という断面を切り取って詠みます。

芭蕉は、「物の見えたる光、いまだ心に消えざるうちにいひとむべし」と言っております。この「物の見えたる光」に気づき、それを受け止めて十七音にしてゆくのです。 そして、「物の見えたる光」を受け止めるには、正しく見るということが必要になってくると思います。それを俳句として正しく語ることよって心が解放されていくのです。

石嶌 岳(俳人)

田中裕明全句集
著者:田中裕明
出版社:ふらんす堂
定価:本体6,000円+税
発行日:2007年7月
田中裕明集
著者:田中裕明
出版社:邑書林
定価:本体1,300円+税
発行日:2003年6月
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