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寿地蔵ードヤの人びとが願い、守ったお地蔵さまー(その2)

取材/文=千羽ひとみ(フリーランスライター)
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5円10円が建立させた寿地蔵

現在の寿町。簡易宿泊所と高齢者のための施設が並び立つ

ハンバーガーに釣られての托鉢行も、2年半も続けると35万円もの浄財が集まったという。

「〝本当にお金が集まるだろうか……?〟師父たちは皆、最後までそう思っていたと思いますよ。1日中托鉢して、集まったのはたった300円ということもありましたから」

日雇いの人びとが集う町である。激しい労働に身を粉にして従事して支給されるのは、当時1万2000円程度から1万円弱。それを業者に中抜きされたあと、その日の食費とドヤ代を工面する。明日、仕事があるかはわからない。托鉢への献金は、そうした中で手元に残った小銭からの、5円、10円、50円だった。

まさに汗と仲間への思いの結晶ともいえる35万円だったのだ。

「すると、さて、どこにお地蔵さんを建てようか? という話になるわけです」

1970年代半ばといえば日本経済も活況で、寿町も労働者達で溢れていた。彼らの需要を満たすべく、町にはドヤや食堂、酒場が建ち並び、お地蔵さんの建立スペースなど見当たらない。唯一、見つかったのは、この町で『センター』と呼ばれていた寿町総合労働福祉会館の裏手、公衆便所横の植栽スペースであった。
〝ここしかない! ここに建てよう──!〟

そう決めた融照先代住職は、早速工事を開始する。
「寺出入りの石屋さんに、〝お地蔵さんから台座まで、どうにか35万円でやってくれ〟と因果を含ませてお願いして」

公営の福祉館会裏手の植栽だから、横浜市が管理する土地である。
いわば強行突破であった。
夜に紛れて重機を運び込み、わずか1日か2日程度の突貫工事で、土台のセメントが乾くか乾かないかのうちにお地蔵さんを建立してしまったのだ。
開眼は、時に昭和53年(1978年)8月の事であった。

現在は徳恩寺の霊園にひっそりと建つ寿地蔵。寿町にもどる日を待っている

〝いつものように壊されてしまうのではないか……〟
融照先代住職はそう案じていたようだと融完師はいう。

「壊されたら壊されたでいい、と。やったことが無駄になるとも思わないし、それを求めていた人もいたわけですから」

懸念は杞憂であった。
キツい臭いを放つ公衆便所の横に建立された『寿町供養塔』こと寿地蔵が、寿の住人たちの心のより所となったのだ。

「道ばたで摘んだのか、たんぽぽの花が供えてあったり、線香立てにタバコの吸い殻が刺さっていたり。吸っていたタバコを線香代わりに供えたものです。アルミ製の花立ても、壊されることなく建立されたままの姿でずっとありましたね……」

寿町の人たち自身の浄財によるお地蔵さんは、町の人たちに愛され、町の人びとの手で守られていたのである。

〝これからも、ずっと守られ続けていってほしい──〟
そう思った融照先代住職等だったが、その数年後、密かに怖れていたことが起こってしまった。

(次回へ続く)

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